【六斗の広見→桜坂→旧野田寺町→旧泉寺町】
笹下町の細い小路を抜けて旧野田寺町の通りに出てきました。向かい側に見える新桜坂は昭和45年(1970)5月にできた新しい坂です。宝暦の大火は、旧暦宝暦9年4月10日~11日(1759年5月6日~7日)に、折からのフェーン現象に煽れたこの辺り(妙典寺と高岸寺の間)からの飛び火は犀川を越え、十三間町の上町に延焼し、以後火は四方に飛び火します。
(左妙典寺右高岸寺・新桜坂・遠方に小立野が眺められる)
(高岸寺より犀川と遠方に金沢城が・・・)
(被害状況は、「加州金沢城中焼失の覚」によると10,508戸。侍と関係する家4150軒・寺社99軒・町家4775軒・寺社門前の百姓屋1506軒、毀家23軒で外に土蔵283棟、橋梁29、番所27、木戸61の焼失があり、焼死者26人という空前の大火でした。金沢では旧暦3~4月に大火が多かったのは、北陸地方特有のフェーン現象によるものです。)
「金沢大火焼失域図(宝暦9年、横山隆昭家蔵)」によると、六斗林で被害にあったのは火元舜昌寺の隣、月照寺まで、向側の玉泉寺の東門前で、広見沿いでは国泰寺東隣の遍照寺が焼失、野田寺町では、笹下町から焼入り、極楽寺から大円寺まで、出火から半刻(約1時間)ほどで向側の妙典寺までの両側が焼失します。
(藩では応急策として幕府から5万両を借入れて一時しのぎをしますが、当時の財政責任者の前田直躬は収集の見込みはないと辞職し、年寄3人がその後を受け、家臣には借知を、領民には冥加金を割り当ています。)
城下では大火は加賀騒動で処刑された大槻伝蔵等の祟りだとささやかれたといいます。6代藩主前田吉徳公の三男で、母は吉徳公の側室真如院の前田利和(勢之佐)の幽霊の仕業だというデマが飛びだしたとも伝えられています。
(大円寺解説板)
「大円寺」
大円寺には、加賀藩出身の士族が中心となって結成された「忠告社」という政治結社の事務所が置かれました。明治8年(1875)東別院での結社式には約1000名が結集したといいます。明治32年(1899)フィリピンの独立戦争に武器弾薬(軍の払い下げ銃14000挺、弾薬500万発)を積んだ「布引丸」をフィリピンに送り込もうとしたが、長崎を出港した後、嵐に遭い、北国新聞社2代目社長林政文らは救命ボートで脱出したが、生きて帰ることができなかった。大円寺には、林政文の墓があります。
(林家の墓)
(林政文は1869年に長野県松本で生まれ、兄に初代「北國新聞」社長の赤羽萬次郎がいる。8歳の時に林政道家の養子になり、1887年一橋の高等商業学校に入り、「昇格問題」で十数人の学生と行動を共にして、退学した。1894年に『佐久間象山』を執筆し、大隈重信から清国の商業視察を嘱託され上海に渡った。日清戦争が勃発し、帰国したが、東京毎日新聞の従軍記者となって再び中国に渡った。養父林政道の病気で松本に帰り、その後東京に転居して、台湾興業会社を興して、台湾開発(侵略)に乗り出した。1898年「北國新聞」社長の赤羽万次郎が死去し、その後を継いで、第2代社長となった。)
「法光寺」
紀尾井町事件の斬奸状を起草した陸義猶(くがよしなお)の碑が法光寺の境内にあります。また、裏の墓地には陸家一族の墓がありますが、お寺については公表されていません。陸義猶(くがよしなお)は維新になり、藩政改革に出遅れた金沢藩は薩摩藩を模範とし、西郷隆盛たちの思想に大いに共鳴します。これが石川県士族と西郷隆盛一派との連携のきっかけになります。
(大久保利通暗殺の主犯格、島田一郎も陸の思想に同調したひとりで、島田は足軽身分でしたが、藩の洋式兵術訓練所に学んで維新戦争に従軍、陸軍大尉に進みますが、藩兵解散後は東京に出ていわゆる国事に奔走。明治7年(1874)の佐賀の乱で、江藤新平の処分に反対して左院に建白書を提出したが、無視されたことに憤激して「とても書面にては志を達することは出来ないと悟りこの上は腕力を用いる」しかないと考えるようになり、その年、石川に「忠告社」が結成されると島田もこれに加わりました。忠告社は中央に設立された「愛国社」の石川県分社でしたが、陸は「忠告社」の副社長となっています。大久保利通暗殺時に斬奸状を起草した事から 終身刑となります。明治22年(1890)特赦で出獄、以後前田家の委嘱で藩史編集に携えてり、大正5年(1916)8月死去。74歳でした。)
(つづく)
参考文献:「石川百年史」石林文吉編 昭和47年11月 石川県公民館連合会など