【六斗の広見→桜坂→旧野田寺町→旧泉寺町】
歳のせいとは言いたくはありませんが、“昼間に出歩く”と夕食を食べるとTVを付けっぱなしで寝ています。それでも以前は11時には目が覚め、ブログを書いたり、原稿を作ったりしていたのですが、最近は起きられなくなり、ここえ来て夜中にオリンピックが始まり日本がメダルを獲るもんだから、夜中に起きだし寝不足ぎみ、お陰で何と今月のブログはこれが2つ目の投稿になります。単なるいい訳ですネ・・・。
(藩政期、泉寺町界隈の古地図・玉泉寺)
今回の話は、「寺町の町歩き」に引き続き「願念寺のお話」「怪談対談」のコラボレーション企画で、私が「寺町の町歩き」のガイドを担当し「六斗の広見」から寺町界隈を2時間かけて巡った時のお話です。
(願念寺で怪談談)
(通常のガイドは、各寺の歴史や町の成り立などをお客様に興味を持って聞いて戴けるような話しですが、今回はコラボ企画ということで、後に続く願念寺の話や怪談対談を意識して、昔の寺町に出てくる幽霊や大火、事件、明治の政治結社の話なども組み込み、また、新(あたらしい)ネタの発掘などにも取り組みました。)
(旧笹下町)
(桜坂から犀川桜橋)
コースは、裏通りの旧笹下町(きゅうささかまち)を経て新桜坂の上へ、さらに右側を上(かみ)にむかって歩き、見晴らしの良い桜坂を下り、W坂を登り、W坂上の眺望台では犀川を眺め、旧野田寺町の通りに出て左側を下り蛤坂上から旧泉寺町寺院群から、イベントが行われる願念寺に向かいました。
(寺町界隈の古地図)
「寺町の成立つ」
泉と野田に約70のお寺が集められたのは、大阪の夏の陣も終わり、家康は中国の年号をパクリ、年号を「元和」(1615~1624)と改められた時期で、元和は元和偃武(げんなえんぶ)。元和は平和の元(はじめ)と書き、偃武は武器を武器庫に収まることで、このように平和をめざした時期に、外様ではあるが徳川家と親戚関係にあった前田家が、防衛上から寺院が集められます。
「寺町めぐり」
スタートは、最近オープンした小さな町家salon「初華(ういか)」さん。場所は月照寺前、六斗の広見から徒歩1分の旧鶴来街道沿。元紙屋さんで、旧野町小学校の近くの文房具店跡を譲り受け、懐かしいノスタルジックな空間に改装。1棟貸しのゲストハウスで1階のスペースをコミュニティースペースやギャラリーとして、不定期開催ですが月に数回イベントが開催され予定です。
「六斗の広見、玉泉寺そして宝暦の大火」
藩政期、金沢では火災が多く、火除けを目的に広見が作られたと言われていますが、他にも高札を立てるため、馬車の回転をするためなど様々な使われ方をしてきたこと、六斗の広見は最も広く今も残っています。
詳しくは
六斗の広見と宝暦の大火
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12041889660.html
玉泉院と玉泉寺
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12037313755.html
「旧笹下町」
金沢市に歴史のまちしるべ標柱一覧によると、泉野村の地であたり一帯が竹藪であったことからこの名がついたという。笹ヶ町とも書いたそうです。文化年間には、こそや小路という私娼屈があり、九峰事件というスキャンダルの舞台なりますが、明治になっても健在で、九師団の兵隊達や、寺の僧侶達が沢山通っていたらしい・・・。
詳しくは
九峰事件①~④
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12067469689.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12069068574.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12070085721.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12070847835.html
「興徳寺」
俗称赤門寺、室生犀星の生母ハルが父小畠吉種の死後、片岡某と住んだという伝説が今も残る日蓮宗のお寺で、子育鬼子母神が奉安され、優しく子を抱き、天女の姿をした尊像が安置し祀られております。
(つづく)
参考文献:「室生犀星ききがき抄」新保千代子著 昭和37年12月・角川書店発行他