【六斗の広見→桜坂→旧野田寺町→旧泉寺町】
昼間は、暑さと忙しさでブログが書けず、夜になると食事の後は白河夜船。夜中に起き出してオリンピック三昧で寝不足ぎみ、言い訳だらけですみません。8月も終わりになり、やっと寺町寺院群2時間ガイドが完結します。
(願念寺の一笑塚)
今回は2時間に拘ったので、つば甚の手前にある甚平坂から犀川左岸の散策は省きましたが、春、桜に時季は、細い小路からパ~ッと広がる犀川の桜が見もので、外せないコースになります。犀川河畔では、芭蕉や北枝の句碑、良く見ると色ガラスがある大正時代に建てられた山錦楼、水色のグラデーションに塗られたトラスの犀川大橋が見えます。そして旧蛤坂町の妙慶寺や成学寺、宮崎寒雉の鐘がある常徳寺、願行寺と続きますが、飛ばしました。
「伝説…蛤坂と天狗さん」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12032541813.html
「旧蛤坂町と「寺町追分」1と2」
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12035264807.html
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12035614814.html
(ユーレン小路)
旧蛤坂町は、右側の真長寺、本長寺、妙立寺、左側の宝勝寺、承証寺、ユーレン小路、西方寺を見て願念寺へ
(真長寺)
金沢の「奥の細道」2犀川辺り(その2)
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11539467206.html
「願念寺」
今までは、遠慮しながら無断で境内に入れて戴き、芭蕉と小杉一笑師弟の話と、梵鐘には有栖川宮熾仁親王の銘が刻まれいるので、戦時中の供出を免れた事などを話してきましたが、今回は、この辺の話も、詳しく聞けて今後のガイドに活かし行きたいと思います。
(国内の9割が供出された梵鐘。残った願念寺の朝鮮鐘)
(願念寺門前)
(尼さんが作った精進料理の夕食)
願念寺の若院の月輪慶比古さんもツアーに同行戴き、願念寺では月輪さんのトークに引き続き、夕食、そして最後のプログラム、文芸評論家で怪談の第一人者東雅夫さんの鏡花作の「怪談女の輪」の朗読会。そして鏡花記念館の穴倉さんとの怪談トークショーが開催されました。
(願念の門)
(怪談対談)
今回は、願念寺の寺宝ともいえる扁額を見せて戴きました。松任の願念寺では、金沢は長男分家なのでイイ物は、あらかた金沢の持っていかれたと言われるそうですが、その扁額は、「顕如上人御真影」の裏書で“文禄2年癸巳9月、越前国石場村願念寺什物」と書かれています。
(扁額)
(願念寺は、16世紀後半、開祖慶恩が越前足羽郡石場村(現福井市石新保町)に寺号「願念寺」を賜り、やがて嫡流と有力門徒は加賀の地、宮丸に転じて寺を創立し、現在は白山市西新町にあります。)
何故、貴重な扁額なのか?文禄元年(1592年)11月24日、顕如の入滅にともない、長男教如が本願寺を継承しますが、文禄2年(1593)閏9月16日に、秀吉の勘気にふれ三男准如が本願寺第十二世法主を継承します。
(教如はこの命に従おうとしますが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てたため秀吉の怒りを買い「今すぐ退隠せよ」との命が下されます。)
(本堂の欄間)
(願念寺境内)
そう、この扁額は、東西分立前、教如が本願寺を継いだ約10ヶ月の極めて時期が限定されているもので、しかも教如が法主から追われる1ヶ月前のことで、歴史的に見ても貴重な物のようです。その後、慶長3年(1598)8月18日、秀吉が没し、教如は、後陽成天皇の勅許を背景に家康より京・烏丸に寺領が寄進され、慶長7年(1602)東本願寺として分立します。
(教如は本願寺北東の一角に退隠させられ「裏方」と称せられています。引退後も教如は精力的に布教活動にいそしみ、なお本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行い後の本願寺分立の芽は着々と育てています。)
参考資料:願念寺さんで戴いたプリント他