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天神さん③天神信仰と金沢

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【金沢城下・田井】
天神さんは、“天つ神“の総称で、菅原道真公一人の神号ではありません。元々の天神は天から降ってくる火雷天神で雷の神とされ、雨は農作物の成育に欠かせないもので、雷は”農耕の神“でもありました。


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(稲妻は稲の夫(つま)の意。稲の結実期に多く起こるので、これによって稲が実ると考えられ、稲と交わる(sexする)ので、雨の下に田を書き雷にいう文字なったといいます。)


各地にも火雷天神と同様の伝承から天神(雷神)が祀られたのが天神信仰でした。しかし、あの菅原道真公が藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府で失意のうちに延喜3年(903)没します。


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道真公の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死、さらには京の御所、清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出たことから、道真公の祟りだと恐れた朝廷は、正暦4年(994)に道真公の無実の罪を解き朝廷より正一位太政大臣を追贈されます。

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(大宰府天満宮)

以後、道真公が火雷天神と呼ばれた雷神信仰と結びついたことなどから道真公の神霊に対する信仰も天神信仰といわれるようになったといわれています。


(もともと天神は、日本で皇室や古代の有力豪族の祖先とされる神々、例えば五条天神(少彦名命))


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(北野天満宮)


昔から京都の北野に火雷天神という地主神が祀られていて、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真公の祟りを鎮めようとしました。道真公が亡くなった太宰府の墓所の地に太宰府天満宮が建立されます。寛和3年(987)には「北野天満宮大神」の神号が下され、また、“天満大自在天神”とも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられたといいます。


(明治4年(1871)神社が「宮」と名乗るには、祭神が基本的には皇族で、勅許が必要になり、天満宮は「神社」と改名され、「宮」が復活したのは、戦後、神道の国家管理が終わった後。)


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(椿原天満宮本殿)


(椿原天満宮は、藩政期は“田井天神社”戦前は、”椿原神社といいました。)


鎌倉時代(1192~)になると、怨霊として恐れられることは少なくなり、「天神縁起」によると、その頃の天神さんは“慈悲の神”“正直の神”として信仰されるようになり、江戸時代(1603~)には、道真公が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は“学問の神”として信仰されるようになります。


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北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われ、天神(道真公)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約4000社(明治43年には全国で11,089社)といわれる分社があり、神社の数は、八幡宮、神明宮につづき第3位だそうです。


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金沢では、前に“一向一揆の堡椿原天満宮”のところでも書きましたが、鎌倉時代から田井村には、五条天神(少彦名命)を祀る村の鎮守・産土神であったといわれています。一説には今の兼六坂の“藪の下”と呼ばれる現小将町中学校辺りに鎮座したといいます。
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(菅原道真公)


永仁2年(1294)京都の北野天満宮より分霊をうけ、富樫氏の家臣が主命によって社殿を造営し、衆庶の尊崇を集めたといいますが、その後、田井の村地の移転などにともない何箇所かに転地し、慶長年間(1596~1615)に前田家によって「田井天神社」が一向一揆時代の椿原堡のところに再興されたといわれています。


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(椿原天満宮拝殿)


現在の「椿原天満宮」は、藩政期の「田井天神社」で椿原堡の下に寛永12年(1635)神主職渥見佐平が社頭を造営、寛文7年(1667)以来高井氏が神主職につき、子孫が神主職を相続し、前田家の遠祖と称せられる菅原道真公を祀っています。


参考文献:監修藤島秀隆・根岸茂夫「金沢城下町」(前田氏と天神信仰・瀬戸薫著)など


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