【金沢・北海道の明治】
殿待楼の乱闘事件の後、中立有志らで組織する立憲真正党らが調停の労を買ってでます。両派が自説を固執しても金沢や石川県にもなんら得るものない。両派は互いに相手の主張を認め合わねばならないと次のような調停案をだします。
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一、 鉄道建設と開墾は全然分離し、双方互いに相手を認め合うこと。
一、 起業会は盈進社員を中心に、これに第三者の有力士族を加えて議員を選び直し、鉄道派に干渉しない。鉄道派も起業会に干渉しない。
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この調停案は、双方が快諾し深刻な対立は和解します。立憲真正党の県吏宮崎義比からは前田家に対し、これまでのいきさつを一切を水に流すよう申し入れ、さらに今後の方策を協議した結果、前田家は改めて金沢士族授産事業費として10万円(1円を2万円とすると20億円)の補助を出し、新たに遠藤秀景、広瀬千麿、宮田練太郎、宮崎義比、堀嘉久馬の5人に起業会事務委員に委嘱します。
鉄道建設派との対立で、しばらく前田家から疎遠になっていた開墾派は、明治15年(1882)、やっと日の目を見ることのなります。調停で補助額が10万円になり、当初の越中大沢野の開墾は変更になり、北海道の岩内郡に前田村を称し困窮士族を入植させ、択捉の島では漁業を営み、陸海で巨利をあげようと目論見ます。
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起業会は、明治16年(1883)北海道進出の準備をはじめ、金沢士族全部から議員20人を選挙します。凡そ盈進社一色ですが、先の調停で了解事項ですので、誰も文句はでません。そして事業団体の名称も「起業社」とし、前田家の指名で堀嘉久馬が総理に、遠藤秀景が副総理に、本社は函館に、前田家の補助金10万円のほかに、一般から15万円の株式を募集しることにし、盈進社は、遠藤秀景ら主力は北海道に渡り、開墾と漁労に乗りだします。
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まずは産業を起し経済的基盤を確立した後、政治に乗り出そうとする遠藤らの計画は、確かに常道ですが、それが思うようにいかないのが世の常、北海道の事業は、第一歩からつまずきます。まず資金で創業のさい多大の経費がかさみ、前田家からの補助金10万円はたちまち残り少なくなり、期待した15万円の株式は1人の応募もありませんので、あわてて幹部が政府に助成の嘆願をしますが一雇もされませんでした。
もともと資金不足は、当てにしていた漁業収益が予定通り行かなかったためで、いま一つ開墾の方も、きびしい北海道の自然の中では遅々として進みません。そして、内部では、思わぬ事件が続発し、遠藤は明治18年(1885)から金沢に帰っていたものの、それでもばん回を画策しますが、万策尽き盈進社の「起業社」脱退になります。
(期待の捕鯨がうまくいかない、北海道のクジラの回遊は豊漁の原因で、ニジマス、マスが追われ移動するのが網にかかる。漁民の生活をおびやかすということで、次第に漁民から妨害を受けるようになり、一時中止を余儀なくされます。悪いことは続くもので、明治18年、(1885)には社員の刃傷沙汰、明治19年(1886)遠藤の片腕の所長大田の原因不明の自殺と思わぬ事故が続発します。)
その後の「起業社」は、残されたメンバーの西田を事務担当として経営方針を改め、漁業をやめて開墾事業に全力を上げることになりますが、当時残っていた前田家補助金2万円、開墾は50万坪が完成していますが、残された未開墾地は68万坪あり、北海道庁からは40万坪貸してくれることになり、これも開墾することになります。その資金を養蚕、製糸、醤油醸造などの副業の利益金に求めようとしますが、結局、失敗に終わってします。
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明治26年(1893)商法が実施されるや、「起業社」は合法の会社組織ではないことが問題になり、ここで同社は財産を全部前田家に譲渡、前田家から改めてすべてに開墾した耕地をその時入植した53戸に無償譲渡し、未開墾地を60万坪は前田家の所有とします。西田らは引き続き前田家の委嘱を受け開墾しますが、事業は一向に好転しないので、ついに明治32年(1899)一切を債権者に引渡し「起業社」17年の歴史を閉じます。
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など