【金沢の明治】
盈進社は、明治13年(1880)組織が固まったところで、越中新川郡大沢野の原野開墾とその付近の山に埋蔵する石炭の採掘にあたろうとします。遠藤秀景の年来の主張である産業立国によるもので、その資金30万円(当時1円が2万円として約60億円)を前田家に申し出ます。
その直前、別に鉄道建設論が前田家に持ち込まれていました。主唱者は、前回書いた遠藤と県会でひと悶着おこした初代石川県会議長の加藤恒です。明治13年(1880)4月には、長浜―敦賀間が着工され、7月には京都―大津間が完成しています。その間、全国各地では続々と私鉄敷設計画が行なわれていて、北陸での敷設も時間の問題と見られていました。加藤恒はここに目を付けていました。
(実際には明治31年に北陸線が開通し金沢へ)
精義社VS盈進社
加藤恒は維新後、衰退する金沢を見るにつけ、北陸に鉄道を敷設することによって金沢の発展を図るべきと考えていました。そこへ遠藤等の専横に不満を持ち脱退し精義社に走った関時叙と旧藩士の疋田直一等が東京へ出発の途中加藤恒を訪ねます。加藤は疋田等に鉄道建設論を吹き込み共に上京し、前田家に申し入れ、これが開墾論と鉄道建設論対立のはじまりです。
両派の運動は次第に激しくなり、盈進社は各方面に開墾派の同志を集め、疋田直一は尾張町に事務所を設けて鉄道を建設する運動をはじめます。ある日、疋田は、盈進社の薄井達之助と酒を飲むうち、いい争いになりとうとう掴み合いになり薄井が殴られ、その仕返しに盈進社員も猛者が尾張町の事務所に乗り込んで疋田を袋だたきにするという無茶苦茶な事件が発生します。
(当時の士族は、百の議論よりも、一発ポカリとやる方が手っ取り早いという事ですが、横行していて暴力沙汰は政治のあらゆる面で通用しています。開設して日の浅い県議会でも同様で、議事のスムーズな運営は討論のルールなど二の次でした。)
前田家では、検討の結果鉄道建設論に傾いていたが、両派の対立がこう激しいと急に結論は出せない。そこで地元の意見をまず尊重することとし、明治13年(1880)8月、家令北川亥之作が前田家旧藩主からの告論文を持ち来県し両論のいずれかは起業会を作って決めるようにと、前田家の意向を伝えます。そこで疋田は授産事業の内容を審議する会議を提案します。
(当時、前田家は14代慶寧公が明治7年死亡しており、告論は慶寧の父斉泰公と15代利嗣公の連名でした。起業会は、士族にための授産事業団体で、成立の経過は、前田家の家令北川亥之作が士族の有力者、黒幕的存在の杉村寛正に、とりまとめの出馬を求めたことからはじまります。)
開墾論、鉄道建設論の両派は、前田家から言われては仕方なく従います。起業会は金沢在住の士族300戸から1人の割りで選挙を行い、30人の議員が選ばれ起業会が組織します。起業会議長は当時金沢区会議長の岡田雄巣がなり、会議は長町(今の玉川図書館)の前田別邸で何回も開かれたが、議員の中に両派もいて、自説を固執するのでまとまるはずもなく、1年が過ぎ、前田家は、かねてから計画のある東北鉄道株式会社の設立を一方的に発表するとともに、起業会の解散を通告し、議員にはその慰労を謝し紋服各一着を贈ります。
前田家が鉄道建設論に踏み切ったのは、前田家は始めから鉄道建設に傾いていて、当時、鉄道建設は全国的ブーム。しかも起業会議員の大部分が鉄道派、そればかりか一般士族も鉄道建設を主張する者が多く、前田家が最終的に決めたのは沿線の調査結果と政府の意向でした。そうなると黙っていないのが盈進社一派、起業会を解散すると発表するや、遠藤秀景は、前田家は士族授産を公約し、その実現に士族全体から選挙で起業会を選んだのではないかとカンカンになって怒りだします。
殿待楼に派手な殴りこみ
その頃、疋田直一一派が金沢の殿町にあった殿待楼という料亭で宴会を開きます。近くに盈進社員の寄宿している民家があり、鉄道建設派の宴会を知った盈進社員は、頭にきて、盈進社をバカにするな!!とばかりに、殴りこみを掛けます。事件での疋田直一は前歯数本を折り、杉本寛正も袋だたきの目にあい、命からがた逃げ帰った疋田は直ぐ”お礼参り“に浅野町の遠藤宅を襲撃。書生川越某を人質に引き揚げます。途中で殴る蹴る、尾張町の事務所では、柱にしばりつけ、かわるがわる殴るなど暴行の限りをつくし、川越某は精神異常をきたしたという。さらに翌日、もう一度襲撃を計画するが、盈進社員は日本刀で守りを固めていたため、ついにあきらめます。
(警察当局は少しも動かず、被害者の告訴もなかったせいもありますが、当時は政治結社の暴力沙汰は常識?として通用していたのでしょう。)
この騒動があって間もなく、長町の前田家別邸から出火し、前田利嗣公は大叔父の利鬯公が専光寺に避難。世間の噂では、放火説が飛び出し結局真相は分らずじまいで終わりますが、時期が時期だけに、盈進社員が鉄道建設派に敗れた腹いせに放火したとか、あるいは鉄道建設派が鉄道の事業資金を使い込んで証拠隠滅のため放火したとかの噂を呼び、一時、問題になりました。
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会・「北陸人物誌」明治編32、昭和39年6月7日、読売新聞社