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明治の金沢“政治結社”⑤石川県会

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【大石川県】
明治12年(1879)府県会町村会規則の制定で全国に県会が開設されます。当時の石川県は、今の石川県と富山県全部と福井県の一部にまたがっていました。明治12年(1879)5月26日、第1回石川県会が開かれます。県会といっても、その性格がきわめてあいまいで、一般庶民にとっては、県令(知事)の命令下達の機関という程度の認識しかなかったようです。

 

(金沢の夜明け)

 

(当時の石川県は、「大石川県」ともいわれ、明治9年(1876)新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いています。しかし、明治14年(1881)に福井県が、明治16年(1883)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域になっています。)

 

(3代目県令千坂高雅)


その頃、県令は評判が悪かった2代目桐山純孝がかわって米沢藩出身の千坂高雅で、第1回石川県会では69人の県会議員が誕生しますが、ただし第2回選挙以後の定数は、改めて県会で決めることになっていました。

 

(県会議員の内訳は:金沢区 4人、江沼郡 2人 、能美郡3人、 石川郡4人、河北郡 3 人、能登 11人、 越中22人、 越前20人の合計 69人でした。)

 

 

当時は議員の歳費はなく、候補者は満25歳以上の男子で県内に本籍があり満3年以上在住し、地租10円以上を納める者と規定され、選挙区は郡区(区は金沢)に分れていて、しかも立候補の制度が現在の制度のように明確になっておらず、2つ以上の選挙区で選ばれることもあり、その時はどちらか好む方で当選すればよかったそうです。

 


有権者は20歳以上の男子で地租5円以上を納める者で、県民の1割しか投票が出来ませんので、民意は反映しているとはいえませんが、有権者は、あらかじめ郡区長から渡された投票用紙に候補者の住所、氏名と投票者の氏名を記入し、投票日に提出するものですが、代人投票が出来ました。

 

(当時の知識階級は、議員はお上の付属機関としか考えていなくて、議員になることには魅力が持てず、特に河北郡と石川郡は候補者難で、金沢区の候補者であっても河北郡で選ばれることもありました。)

 

金沢区の定員は4名で長谷川準也が最高点で、次が加藤恒、河瀬貫一郎、東京から帰っていた遠藤秀景が当選しています。当時企業に没頭していた長谷川準也が辞退し、加藤恒が河北郡でも当選していたので金沢を辞退し、落選の安田冓車、松原小四郎の2人が繰り上げ当選することになります。

 

(蓮昌寺)


したがって当選者4人のうち、組織が大きい本行寺派(精義社)は1人もいなく、河野、遠藤、安田の3人が蓮昌寺派(盈進社)に属しています。選挙はのんびりしていましたが、県会の議論は白熱していて、加賀は士族の没落が大きな社会問題ですが、能登では産業振興を主張し、越中では、庄川、神通川、常願寺川といった荒れ川の氾濫で農民が苦しんでいて、治水優先を主張、この予算のことで、金沢区選出の河瀬、遠藤が激しく県当局を非難します。

 

 

(これが目に余ると加藤恒議長が遠藤の発言を停止したことで、遠藤は怒り、その後の議会出席を拒否したことで、遠藤の部下の面々が加藤恒議長の自宅まで押しかけ、発言停止の理由を詰問すると言う事件が起こります。)

 


この第1回県会は、明治12年(1879)5月26日に開会し、この年は全国的にコレラが流行り県内でも大流行し、患者総数29,808人当時、ほとんど治療法もなく死者21,144人に達し、7月29日の休会。9月13日に再開して10月15日やっと閉会となり、会期は107日大変な長期県会となりました。

 

(つづく)

 

参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など


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