【没落した金沢】
これだけはおさえて置きたいので、話は多少前後しますが、士族の転落は、“武家の商法”という失敗もありますが、松方正義のデフレ政策でした。俗のいう「松方デフレ」です。西南の役(明治10年)後や各種の官営事業で乱発された紙幣を整理し、インフレによる物価の値上がりを押さえようというもので、金融引き締めによるデフレでした。
(松方正義)
(それより以前、明治9年(1877)に政府は士族に支給していた家禄(米で支給する給料)をやめ禄高を金で換算して、それを公債にした「金禄公債」を発行します。換算率は、米一石(150kg)あたり3円55銭3厘7毛という値段で、政府は当時石川県の士族に支給した金禄公債は812万2400円。配分の方法は各自の禄高の6年分と4年分にわけ、6年分を受ける者は昔から前田藩の家臣、4年分はその他の者となっていました。)
(内田政風)
明治5年(1873)石川権令内田政風に認められた旧金沢(加賀)藩士の長谷川準也が、尾山神社を建立しようと旧藩士の家庭を訪ねおどろきます。武士の誇りも格式もどこへやら、当時、約2万人いた士族のうち下級武士のほとんどが、赤貧を洗うような生活ぶりを知った長谷川準也は、就任したばかりの金沢町総区長を半年で投げ捨て、士族救済に立ち上がることを決意します。
(尾山神社)
(長谷川準也)
“黄八丈芸者に謡曲門づけ”
これは当時の金沢士族の姿を見事に言い当てています。かっては高価な黄八丈(きはちじょう)の着物を着ていた武家の娘が、身売りして、芸者になってお座敷をつとめているかと思えば、貧苦にあえぐ老士族が、その日の食費をかせぎに、職もかまわず武家のたしなみであった謡曲を唯一の芸に、家から家へうたい歩く有様でした。
(幕末の壮猶館、明治になり金沢区方開拓所に以後勧業場に)
元々、前に書いた「金禄公債」発行の理由の中に、士族に生業資金を与えるという事であったが、一時的に金がだぶついたとあって、各地に金融機関が誕生し、金沢でも粟ヶ崎の木屋藤右衛門の為替会社など多数の銀行が設立されます。
士族たちの多くは利子により生活の安定をもくろみ、公債を為替会社に預け入れ、金融機関は、利子かせぎのため家屋などの不動産を抵当に金を貸し付けますが、政府のデフレ政策が浸透するにつれ金づまりになり、金融機関は資金回収に苦しみ、一般預金者への支払いが中止になり、困り果てた金沢の士族の中には、親子心中、自殺をはかるものが続発、金沢城の石川門の下百間堀は、自殺の名所と言われるようになります。
(石川門と百間堀)
そういったことから、金沢の政治結社は、表向きは自由民権を唱えながら、“士族授産”のような地味な経済政策確立のための運動にはまり込んでいったのでしょう。しかも石川県民の10%に満たない士族のために・・・。
(百万石のお膝元)
(百万石のお膝元、金沢では、政治(民権)運動に入ったのは、大部分が士族だったため、振り返ってみれば、貧困に追い込まれているかっての仲間、明日はわが身と士族の生活改善に目が向くのは致し方ないことであり、隣の越中の政治(民権)運動は、豪農や平民層を中心で、比較すればかなり違うようです。)
参考資料:「北陸人物志」昭和39年5月~6月・読売新聞社