【東山2丁目】
少し遡りますが、明治12年(1879)の初頭、旧浅野町組の遠藤秀景とその同志が蓮昌寺派と称し、寺に集まり国政を論じ、心身練磨のため読書、作文、剣道、相撲などで気炎を上げていたが、蓮昌寺派がしばらくの間に解散同然になります。
(蓮昌寺の桜)
(遠藤秀景は、大久保利通暗殺事件の島田一郎らから、明治10年(1877)の西南の役に政府軍として従軍し“寝返り西郷隆盛側に付く”という挙兵計画は遠藤が断ったことから実行されなかった。大久保利通暗殺事件への参加も断っています。)
(蓮昌寺より通り)
明治11年(1878)天皇陛下の北陸巡幸を前に、元石川県警察官寺垣吉之が大久保利通暗殺事件の一味として逮捕され、石川島監獄に禁固に処せられます。暗殺事件の前の西南の役のさい島田一郎の挙兵計画を明らかにします。同囚から聞いた話として、遠藤秀景らが挙兵計画に参加した者が、今も石川県にいて、天皇陛下がこのまま北陸に巡幸されては万一のことがあれば心配だと密告します。
(蓮昌寺の大仏)
政府は、直ちに石川県の連絡し、遠藤秀景ら4人を金沢監獄に収容され、東京から検事が出張し取調べます。しかし、遠藤秀景らが西南の役の挙兵計画に参加したことは言わず、島田は大久保利通暗殺事件に終始反対した事を申し立てます。結局、島田ら4人は無実ということになり、島田を含め3人は大久保利通暗殺事件に反対した論功行賞として警視庁警部に登用されることになります。
(蓮昌寺の高麗門)
そのような時に配下の関時叙が九州に旅行し、福岡の向陽社(玄洋社の前身)を訪ね、同社の主義や組織に共鳴して帰り“蓮昌寺派を刷新しよう”と幹部に申し出ます。その趣旨は「いやしくも天下国家に尽くそうとする者は、政府の保護を受けず、純然たる民間にあって、強硬論をひっさげて官権に対立せねばならない」というものです。
(遠藤秀景)
警視庁警部の登用通知を受けていた遠藤としては、関は主張に「官僚と提携しようと、役人に登用されようと、国家に奉ずるのに差し支えない」と言って上京します。そのため、日頃遠藤秀景、盟友広瀬千麿の両幹部の専横に不満を持っていた関をはじめ中堅10数人が脱退し、本行寺派(後の精義社)に走ります。
(金沢城の石垣)
残った蓮昌寺派は広瀬千麿はじめ少壮組は、金沢の宗叔町2番丁の浅尾義秀の家を集会所として集まり、浅尾塾と称し広瀬を塾長に推します。まもなく遠藤秀景の父、遠藤柳の死亡により警部にならずに帰ってきて、遠藤は、日頃の主張である産業立国を実践すべく、同志を集め福島県の猪苗代湖近くの対面ヶ原開墾を計画しますが、膨大な資金の都合がつかず断念。明治12年(1879)末、今度は長土塀に水車を作って製紙事業を起しますが、未経験者ばかりで、あえなく失敗“武家の商法”ぶりをさらけだします。
(石川門)
明治13年(1880)春、此花町の斉藤知一宅を根城に会合するようになり、元蓮昌寺派首脳らとともに参加、それまでかすんでいた小団体が続々参加してきて、再び勢力を盛り返し、明治13年(1880)4月に盈進社(えいしんしゃ)が結成されました。
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会など