【浅野町→旧泉寺町→旧梅本町】
島田一郎等の大久保利通暗殺事件以後、明治13年(1880)金沢では政治結社精義社が全国の同志と共に国会開設を叫び、演説会を開くなど活動をしていますが、栄えたのはわずか1年で、明治14年(1881)には、社内は2派ができごたごたが生じ、そのあおりでトップ3人に対し中堅組一同が実権を握ろうとクーデターを起し、結成以来8年続いた精義社は没落します。それにかわって頭角を現したのが遠藤秀景率いる盈進社(えいしんしゃ)でした。
(始めに派として集まった蓮昌寺)
明治13年(1880)4月に結成された盈進社(えいしんしゃ)は10年間、良きにつけ悪しきにつけ、明治中期の石川県の政治史に大いに足跡を残しますが、その特徴は自ら産業面に乗り出したことにあります。そのリーダーの遠藤秀景はどんな人物であったのか?少し掘り下げてみることにします。
(当時の石川県庁)
遠藤秀景は嘉永6年(1853)12月に金沢の浅野町で生まれ、父は不破彦三の家臣で理髪職。維新後は質屋をしていて、秀景も少年の頃は家業を手伝っていました。性格は豪放闊達で任侠に冨み、やがて、町内仲間の頭となり浅野町組を構えます。明治10年(1877)の西南の役では、秀景25歳の春、島田一郎から挙兵を求められますが、それには乗らず島田も挙兵に至らず9月には、当時、武芸復興の波に乗り、自宅で剣道場を開設し、近所の青年を率い後日の活躍を期しています。
(旧泉寺町の承証寺)
明治13年(1880)28歳で、製紙事業に失敗した秀景は、友人と共に蓮昌寺派を結成し、それまでかすんでいた小団体が続々と参加し、旧に活気を取り戻し、一同は泉寺町も承証寺、さらに広誓寺、旧殿町を経て旧梅本町の事務所に移し4月に政治結社を結成し盈進社(えいじんしゃ)と命名します。
(カンタ丶(めだか)と呼ばれた遠藤秀景)
(「盈進(えいしん)」というのは、孟子の「盈科後進」からとったもので、“湧き出る水は穴があれば、それを一杯にし、さらに進むように、「仁」を行わねばなら無い”という意味だそうです。)
余談:遠藤秀景については、郷土の作家徳田秋声の腹違いの姉が一時、嫁ついで居たと自伝的小説「光を追うて」に書かれています。小説の中の話ですから・・・真偽は調べていませんが、以下一部を引用します。
(徳田秋声の卯辰山の文学碑)
「・・・、家は五六段石段を登ったところにあった。遠藤は政党政治の初期のことを知っている人なら、誰でも知っている筈の男のことで盈進社という名高い壮士の結社の盟主であり、県会でも睨みのきいた名物男であった。町の中央部の梅本町に、黒い柵を繞(めぐ)らした建物があり、そこに大きな看板がかかっていた。盈進社は玄洋社とは格も異ったであろうが、多分島田一郎達七人組の志士の志を享け継いだものでもあったであろう。・・・」
(秋声のみち)
「・・・遠藤の方が少し眼球が飛び出しており、左の肩が隆々と聳え立っていた。町の人は彼を遠藤のカンタ丶と呼んでいた。カンタ丶とは東京でいうメダカのことである。」
「増代姉は容色は誰でも目のつく方であったが、娘時代には愛嬌のいい方ではなかったし、縹緻(きりょう)望みで遠藤に片づいて行っても滅多に笑うこともないような新婦であったヽめか、それとも何が遠藤の家風に合わないところでもあったのか、永くもそこにいなかった。そして妹の三芳の縁談が持ちあがった時分には、既に商家に嫁していた。」
(つづく)
参考文献:石林文吉著「石川百年史」発行昭和47年石川県公民館連合会、徳田秋声著、「徳田秋声全集〈第18巻〉光を追うて・縮図」発行 平成12年9月八木書店など