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古地図に“千秋家”が・・・①

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【常盤橋→浅野川大橋】
延宝金沢図で味噌蔵町を探していたら千秋家が目に留まりました。さらに下って幕末の地図を調べると、近くに他2軒の千秋家が載っています。昔、黒沢映画によく出ていた千秋実の千秋“ちあき“ではなく、金沢の千秋家は“せんしゅうけ”と呼ぶそうです。

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(本家千秋彦兵衛家跡・金沢中央消防署味噌蔵町出張所)

数年前、千秋家ゆかりの人から立派な桐の箱に入った”千秋家の家譜“を譲り受けたのを思い出し紐解いてみました。千秋家は越前府中(武生)から前田利家公に仕えた家柄で、幕末、金沢では12家が「先祖由緒一類附帳」を藩に提出されています。


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(延宝金沢図写し「赤は本家・青は喜兵衛家・緑は三島千秋家」石川県立図書館蔵)


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(桐箱に入った千秋家の家譜)


千秋家の遠祖は、熱田24代大宮司藤原季範(としのり)の3世憲朝で、季範は、後白河天皇や源頼朝の外祖父、憲朝は季範の孫にあたり、熱田大宮司千秋家系に「これより千秋の名起こり申候」とあるそうですが、それより先に季範の長女上西門院統子女房と次女待賢門院璋子女房が共に千秋尼という古文書もあるといいます。


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(千秋家の家紋・三葉柏)


その後、憲朝の子孫が室町時代足利幕府の将軍直属軍である奉公衆になり、やがて一部が越前に居住し、斯波氏、朝倉氏の臣になり、朝倉氏の滅亡後、越前府中で前田利家公の家臣になったのが、千秋山城守の子千秋主殿助と弟の喜兵衛でした。


(現在も越前千秋氏が居住した鯖江市辺りには、40戸の千秋家が確認されたといいます。ちなみに金沢近辺では千秋家はないそうです。)


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(味噌蔵丁九人橋高の本家跡)

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(敬愛病院裏電信柱の左が喜兵衛家跡)
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(敬愛病院正面左、東外惣構脇三島千秋家跡)


藩政期12家の内、味噌蔵丁(町)に居住地があったのは3家。幕末期、本家(500石)にあたる加賀千秋家元祖山城守藤原景能の長子主殿助の直系彦兵衛家の屋敷は味噌蔵丁九人橋高(現兼六元町)にあり、他、分家の2軒は味噌蔵丁藪の内(現兼六元町)にありました。


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(幕末の地図写し・赤、本家(彦兵衛家)・青、喜兵衛家・緑、三島千秋家)

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(手書の千秋家の系図・砺波正夫氏の収集した資料より)

本家の“味噌蔵丁九人橋高”は、現在の金沢中央消防署味噌蔵町出張所のところで、昔は東内惣構の左岸が石垣の高台になっていたので、幕末から明治初期は、味噌蔵丁九人橋高と呼ばれていたものと思われます。


(余談ですが、この土地は、前は金沢第一ホテルで、それ以前にあった“旅館さいとう”は、萌黄色に朱色の平仮名のロゴが金沢の景観にそぐわないという事で問題になり、全国紙を賑わしたのが思い出されます。また、その先は時計屋さんで、大正時代には、北大路魯山人の理解者として知られる細野燕台の屋敷だった聞きます。)


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(地上5階の旅館さいとう昭和52年頃)


分家の2家は“味噌蔵丁藪の内”。古地図によると、加賀千秋家元祖山城守藤原景能の次男の喜兵衛(200石)の系統と、その分家の分家三島千秋家(75俵)の居住地で、喜兵衛家の屋敷は、賢坂辻から敬愛病院裏に通じる坂下の東外惣構(源太郎川)の左岸にあり、千秋三島家の屋敷は敬愛病院の正面左側の東外惣構脇にありました。


(味噌蔵丁藪の内は、東外惣構左岸が防御上藪になっていたので、“藪の内”と言ったものと思われます。今はありませんが、市内には「高岡町藪の内」という地名がありましたが、同じ発想で付けられた通称なのでしょう。)


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(敬愛病院の構内に東外惣構の堀がありました)


この後、何回かに分けて、最近、余り語られていない、越前朝倉家没落後、前田家に仕え、末森城の戦いで奥村永福と防戦した千秋主殿助のこと、そして千秋主殿助の弟喜兵衛より6代目宗助の次男で幕末加賀藩の俊才といわれ、禁門の変(蛤御門の変)に関わった千秋順之助のことなど、ぼちぼち書きます。


参考文献:「加賀千秋家」平成17年発行・他金沢の郷土史家砺波正夫氏の収集した資料など


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