【常盤橋→天神橋】
天正12年(1584)9月9日の“末森の戦い”は、前田利家公にとっては唯一の自らの判断で行った戦闘だったといわれています。
(末森城跡)
末森城に篭城する大将奥村助右衛門永福・元末森城主土肥親真の弟土肥伊予守次茂・千秋主殿助範尚らの篭城軍1,500人が越中の佐々成政軍15,000人に包囲され、落城寸前まで追い込まれ、自害を覚悟した奥村永福は妻・安に、楠公の篭城の例から”なんと気弱な“と諌められ、玉砕覚悟の死闘を繰り広げ、援軍を待ったという伝説の戦闘です。
(永福の妻・安が薙刀を手に「援軍は必ず参る。無駄に命を捨ててはならぬ」と城兵を激励し、粥を炊きだした話はよく知られています。)
(永福の妻・安)
豊臣秀吉公からは「金沢で城の守りに専念せよ」と命じられていた利家公は、それを理由に反対する家臣の声を振り切って出陣したといいます。援軍は津幡の城に入り、松任城の長男利長軍の到着を待ちます。
(前田利家軍)
津幡の城での軍議でも出兵反対の声が出ますが、織田信長公ばりに、利家公は一騎駆けで出発し、追いつく兵2,500人とともに、浜伝いに進撃、11日の夜明けに末森城を包囲する佐々軍の背後を突きます。
(佐々成政)
これに勇躍した末森城兵たちも城から打って出て、挟み撃ちとなった佐々軍は壊滅、このとき佐々軍は12人の主だった武将を失い、2,000人の死者を出し佐々軍は反撃を断念して撤収したといいます。
(利家軍は、敵を追い打撃を与える力まではなく、佐々軍は末森城を落とせなかったが枝城である無人の鳥越城(津幡)を占領しているので、戦いは利家軍の一方的な勝利というより、末森から追い出すことに成功したというか・・・「痛み分け」に近いものだったと伝えられています。)
末森城は加賀と能登の玄関口にあたり、越中とも境界を接する要衝の地でした。ここを押さえることができれば、佐々軍は、前田氏の領土加賀と能登を分断でき、その後の軍事行動も展開しやすくなることもあり仕掛けられたのでしょう。
(末森城は、元和元年(1615)、一国一城令により廃城になりました。)
(千秋家の家紋・三葉柏)
越中の佐々成政は、はじめ羽柴秀吉方であり、前田利家公とも永く友好関係にありながら、小牧・長久手の合戦で徳川家康・織田信雄の連合軍が善戦しているのを見て、家康に与することに心を決めたといいます。
(千秋一族の家譜)
この戦で篭城した大将奥村助右衛門永福、土肥伊予守次茂、千秋主殿助範尚の内、土肥伊予守は戦死。千秋主殿助は助右衛門と共に城をよく守りきって功を立てるが、天正18年(1590)小田原の役で利家公に従って関東に出陣し、帰途、越中岩瀬で病死します。
(千秋家系図部分・主殿助範尚とあり、なお範昌は誤とある。)砺波正夫氏資料より
末森の戦いの功で千秋主殿助範尚は、奥村助右衛門永福とともに1,000俵の加増を受け、8,560俵を禄しています。8,560俵は後にいう4,280石に当たりますが、千秋主殿助範尚が没したとき一子彦兵衛範望はまだ幼少のため1,000俵(500石)を受け、そのまま幕末まで500石だったといいます。
(奥村永福座像・永福寺蔵)
もう一つ千秋家に関わる伝承に、千秋主殿助範尚は越前者で佐々成政の家中に知り合いが多く、これを怪しんだ奥村助右衛門永福は、範尚を二の丸から出丸に移したというもので、寝返りの疑いをかけられたということです。何か永福と範尚との間に確執があったように想像させます。
(千秋主殿助範尚は、弟喜兵衛と天正9年に加賀に入り利家公に仕えるが、それ以前は越前にいました。)
(前田利家公御感状の写し・千俵加増が記されている。)砺波正夫氏資料より
範尚に裏切りのきざしがなかったことは、戦いの後、利家公や利長公から感状を受け、永福と同じ1,000俵の加増を受けていることからも明らかです。また、永福と範尚との間の確執についても、それは何だったのか?そして、それが有ったのか無かったのか、今となっては知る由もありません。
参考文献:「加賀千秋家」平成17年発行・金沢の郷土史家砺波正夫氏の収集した資料、亀田康範著「末森合戦と千秋主殿助宛の手紙」など