【出羽町・本多町界隈】
前回、松田次郎左衛門の項で書きましたが、石浦主水は伯父松田次郎左衛門と洲崎慶覚坊の姦計に嵌り、米泉の慶覚坊の屋敷に招かれ酒宴で、伯父・甥共に泥酔して前後不覚に陥ります。主水はトイレに立つと、薮中に兵が数人隠れているのに気づきます。
(今の石浦砦跡)
主水は、あわやと思い伯父を起しに行きますが埒があかず、いかに次郎左衛門が剛の者でも、泥酔していたので簡単に討たれ、お供の郎党や手の者も討たれてしまいます。只一人、次郎左衛門の馬丁三右衛門は、主の馬に跨り、田井城に帰ります。主水は堀を越えて道を尋ね、ようやく石浦砦に逃げ返ります。しかし、洲崎慶覚坊が多勢2手に分け、時を移さず田井城と石浦砦を目指し旗が天をおう如く押し寄せられ、煙と火に覆われた田井城も石浦砦は落城します。
(田井城跡・国立医療センター)
[石浦砦跡]
森田柿園の「金澤古蹟志」には、「加府事迹実禄」に云うとして、“石浦砦は、今の慈光院の地なりと。”あり、「三州志故墟考」では“長享の頃、賊師石浦主水、加賀国石川郡石浦に住す。これ堡(砦)は今の慈光院の地邊にありしか、・・・”とあるように今の鈴木大拙館(藩政期は長谷寺慈光院)の辺りに有ったことが窺えます。
(今鈴木大拙館の石浦砦跡)
(50年程前のお話です。今の鈴木大拙館のところに、その頃、地元では少ない東証一部上場会社某鉄工所社長のお屋敷がありました。立志伝中の社長で、他に短大の理事長のなさっていて、金沢の実業界でも頭一つリードしていたように思います。お屋敷は、立派なもので、その頃、お隣に印刷会社の社長で元金沢市長の私邸がありましたが、その家が霞んでしまうほど、金沢でも余り見かけない長い塀に囲まれ、塀の中は見ることができませんでしたが、庭には、後で知ったのですが、今、金沢21世紀美術館にある茶室(山宇亭)があったそうです。その頃でも、通るたびに、私には将来こんな家に住める筈かないと思うほどで、ため息が出て憧れ以上のものを感じたものです。ところがその家から毎日通学で行き交う女学生が出てきました。いつも2人の女学生が坂を上がってきました。私の通学仲間の1人が、もう1人の女学生と中学時代の知り合いで、たまに親しく話しているのを見て、そのお屋敷の君に親しく話しが出来るのではないかと密かに思ったものです。その頃から急に通学仲間が増えました。
(今21世紀美術館にある茶室)
多いときには下級生も含めて7~9人になり、私の家が待ち合わせ場所になり、束になって通学するようになります・・・。悲しいかな、その威圧感たるやその頃の自分たちには気づきませんでした。幼いですネ!!鈴木大拙館に行くたびにそんな甘酸っぱい思いといきがっていた頃を思い出す今日この頃です。あれから半世紀、続きは・・・、でも、この辺で・・・。)
(大乗寺坂より加賀富士が見える)
(大乗寺坂)
[石浦砦の外濠か?霞ヶ池]
今、北陸放送(MRO)の庭園にある霞ヶ池は、昔、もっと大きな池で、一向一揆時代より石浦砦の外濠であったと思われます。永い間に埋もれて、藩政期は本多家中屋敷の庭の池で今は沼のように見えます。池の名前は兼六園の大きな池と同名の「霞ヶ池」と呼ばれていますが、こちらは大昔からあったようです。
(霞ヶ池)
(今、本多町の金沢21世紀美術館の茶室の近く、畳屋橋の辺りは、「霞ヶ野」と呼ばれていたそうです。今、石浦神社の側が小立野台の崖下でその一帯が、毎朝、他所より多く霞が深く立ち、故に大昔より「霞ヶ野」と呼ばれていたようで、
その近くにあった池だから「霞ヶ池」と言われていたのでは・・・?)
(畳屋橋)
(つづく)
参考文献 :「金沢古蹟志巻30」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行 ほか