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本多町界隈の一向一揆伝説⑥山本若狭守家藝

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【本多町界隈】

前田家16代前田利為候は、15代利嗣氏に男子がなく娘婿として七日市藩系から16代として迎えられます。今の前田家当主(18代前田利祐氏)の祖父にあたります。七日市藩は今の群馬県富岡市七日市にあり、藩祖は、加賀藩祖の前田利家公の5男の利孝です。

 

(利為侯の建てた目黒駒場の旧前田家本邸)

(前田利為候)

 (旧七日市藩の藩邸跡)

 

参考ブログ

16代前田家のお殿様②軍人利為候(一)

http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12151779543.html

 

 

加賀藩藩祖前田利家公)

 

利孝の母は、前田利家公の側室於古和(明運院)で、一向一揆の首領で石浦砦を守備していた山本若狭守家藝(祖は山本圓正、浅野川左岸諸江に拠点)の娘でした。若狭守家藝は一向宗(浄土真宗)11世の顕如の下で、これ以上抵抗しても無益だと悟り利家公に従い、以後、一揆を収束させる為に働き、その労により利家公は石浦砦跡に、焼失した石浦山王の氏子たちと神仏習合の真言宗石浦山長谷寺(慈光院)の建立を認めたといわれています。

 

 (石浦砦跡・現鈴木大拙館裏)

 

家藝の娘於古和も京の前田屋敷に召し出され、利家公の側室として利孝を産み、利孝は11歳の時、芳春院(まつ)と江戸へ人質として出され、芳春院が帰った後も残り、徳川秀忠に従い大坂の陣で戦功をあげ、元和2年(161612月に幕府から七日市一万石を拝領。於古和はその後、京都の町人山田勘兵衛へ入嫁し、勘兵衛の死後、「妙(明)運」と号し、以後、利孝の元で暮らし、慶安元年(1648)36日に逝去されました。

 

(利孝は利家公の死後、異母兄の利長公が徳川家康と本多正信の主従の画策で「幻の家康暗殺事件」の疑惑をかけ、利長公の生母芳春院(まつ)と共に人質として江戸で幼年期を過ごします。芳春院の帰国後も江戸の残り、幾多の功績から七日市藩を拝領。以後、小藩であったため、本藩加賀藩の財政的援助を受け、また本藩のサテライトとして明治維新まで存続しました。)

 

(七日市藩の系図)

 

(安政の古地図より)

 

[金澤古蹟志では]

石浦砦は、石浦主水が洲崎慶覚坊により落城以来、天正の頃に至り山本若狭守家藝が砦跡を修造し、尾山本願寺(金沢御堂)の守護になり本願寺の下知に随い、この地辺を押領して一揆の魁首となっていますが、天正8年(1580)閏3月、柴田勝家、佐久間盛政が加賀国に討入り尾山本願寺(金沢御堂)以下要害はことごとく落却し、石浦砦も例外でなく山本若狭守家藝も討死したとありますが、信長記、北陸七国志等には書かれていなく、利家公に仕えたのか?は薮の中です。

 

 

(七日市藩の家紋・利家公と同じ紋)

 

山本若狭守家藝は土着の人のようです。城州上賀茂の社蔵注進雑記に載っている永正・享禄中の加賀国金津庄の古文書に、山本興五郎・山本民部丞・山本越前守などの名があり、これらの人々の子孫であるのではと考えられます。富樫記の官地論に、長享2年(1488)石川郡高尾城へ富樫政親の籠城を取巻いた本願寺一揆の賊将中に、山本圓正入道という名前があり、この山本圓正は江沼郡那谷の近くの山本村より出ている人ではといわれています。その山本氏の人々と若しくは同族で山本若狭守家藝もその子孫だとすれば、山本圓正以来世々本願寺の下知に随ひ、一揆の魁首となり、組子を支配していたのでしょう。

 

(この項おわり)

 

参考文献 :「金沢古蹟志巻30」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 


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