Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

城普請の名人篠原出羽守一孝

$
0
0

【金沢城公園】

篠原出羽守は、利家公が遺言にあるように、口が堅く律義者で、しかも末森の戦いでは病気を押して出陣し小田原征伐でも力戦。大坂で利家公が亡くなると棺を守って加賀に帰ったことでも知られ、大坂の冬・夏の両陣では部隊長として活躍するなど、前田利家公の信頼を一身の集めた勇猛な武将であったことは言うまでもありませんが、城づくりにおいても前田家では客将高山右近と並び称せられる築城の名人でした。

 

 

 (初期の石垣・丑寅櫓)

 

加賀藩最初の通史といわれている「三壷聞書」を要約すると、文禄元年(15922代利長公が初代利家公の命による金沢城の高石垣普請で、東の方が2度も崩れ、なかなかうまく積むことが出来ず、利長公は悩んでいたところ、上方にいた利家公は、家臣の篠原出羽守に石垣の施工方法の詳細を指示され、金沢に下った篠原は石垣普請の采配に取り組みます。これが利長公にとって面白くなかったのか「出羽よ、父上が指示された通りにやるがよい。」と、さっさと越中守山城に帰ってしまいます。

 

 

(東丸の2段積みの石垣)

 

篠原出羽守は、8割まで石垣を築いたところで、少し段を設けて高石垣を完成させます。利長公はこの工法が気にくわず、腹を立て「途中に段のある石垣にするのなら、誰も苦労はしない。我は段を作らず、すっきり上まで積み上げたかったのだ。その方がずっと攻防性に優れ、見た目もあっぱれではないか。しかし、出来栄えはまずまず上々じゃ」と利長公は嫌味を残したと伝えられています。

 

(利長公が越中守山城に帰ったのは、ふてくされヘソを曲げて帰ったというよりも、金沢城修築と同時に守山城や守山城下町の修築を進めるためだとか、金沢に滞在している間に守山城で家臣たちの小競り合いがあり利長公としては越中の家臣の意思統一が、尤も重要だったためだと言われています。)

 

 

 

 (初期の自然石積み)

 

金沢城の修築は、文禄・慶長の二度にわたる秀吉の朝鮮出兵で名護屋城や朝鮮で造られた倭城の築城と平行して進められ、肥前名護屋・大坂・京と秀吉に随行し、補佐役として陣頭指揮にあたっていた前田利家公は、名護屋城や倭城の高度な石垣技術を金沢城の高石垣に活用、篠原出羽守に指示し修築したと言われています。

 

 

 (石積みの解説)

 

その後、慶長4年(15998月、2代利長公がお国入りなされ、篠原出羽守は越前金津までお出迎えに出、金津で御飯を用意しますが、利長公は食事を取らず直ぐに立たれ、出羽守は面目を失いますが、少しも屈せず、急ぎ金沢に帰り、御落着の御膳を用意します。利長公はご機嫌も直り、快く御膳を召上り、それより利家公の時のように召仕えるようになったと言われています。

 

 

(高山右近の西内惣構)

 

また、3代利常公が家督相続以前のことですが、金沢城の河北門の升形を築きますが、篠原出羽守が上方から御使いで帰り、出来上がっていた高山右近の用意した石を見て「この所は、お城の大手なので、門の石が小さくてみすぼらしい。」と言い、打ち壊し築き直したことに利常公は「もし家督を御譲られれば、出羽を成敗する。」とが腹を立てますが、いざ家督が譲られるとなかなか成敗も思いいたらず断ち切れになってしまいます。

 

 (左東内惣構・右東外惣構)

 

[篠原出羽守一孝と高山右近]

こんな話もあります。金沢城の惣構ですが、安土桃山時代や江戸時代初期に城を防御するために造られた堀や土居で、金沢城では二重になっていて、内惣構は慶長4年(1599)に2代藩主利長公が高山右近に、外惣構は慶長15年(1610)に3代藩主利常公が篠原出羽守に造らせています。

 

 

(高山右近像)

 

 

篠原出羽守一孝と高山右近は、互いに金沢城の修築や造成に取り組みます。惣構でも内惣構が右近、外惣構を一孝が担当し共同作業も多かったと思われますが、信義と出しゃばらない性格の右近と、無口で頑固ですが律儀で信義を重んじる一孝は、表立って対立はしていなかったらしいが、個人的な付き合いはさすがになかったものと思われます。

 

 

 (櫓の石垣)

 

大阪の陣を前、慶長19年(1614)幕府の大禁教令「伴天連追放文」の発布で、高山右近に金沢退去命令が下り、長崎までの護送役が篠原出羽守でした。加賀藩が用意した囚人護送用の籠を見て「加賀藩に多大な功績を示した高山右近に対して、無腰でこんな物に乗せるのは言語道断。途中で逃げたり、刺客に襲われた時は、私が責任を取って切腹すれば良いだけだ!!」として、上級武家の輿を用意させ、自分の大小刀を右近に差し渡そうとしたと言われています。

 

さすがに右近も「ご厚意はかたじけないが、殿(利長公)や若殿(利常公)の意に反する。」と大小は辞退したと言われています。本音のところで主義や立場での反目はあった二人はお互いを認めあっていてことがよく分る逸話です。このことからも加賀藩では武士の鏡として篠原出羽守一孝は尊敬と称賛を集めたと言われています。

 

 

 (金沢に残るキリシタン灯篭)

 

篠原出羽守は、利家の妻お松の方の従兄弟の養子で、妻は利家公の姪と前田家一門です。一時は2代利長公3代利常公に煙たがられますが、優秀で律儀者な出羽守は、仕えた3代の藩主には信頼が篤く、また、それに応え前田家のために尽します。

 

参考文献 :「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行。「高山右近」加賀乙彦著、講談社 平成11年発行:ほか


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles