【出羽町・金沢城】
太田長知(おおたながとも)、サァ~誰や~ァ・・・?って事になりますが、長知は加賀藩初期の重臣で利家公の正室お松の方(芳春院)の姉の子、第2代藩主前田利長公の従兄弟でした。天正15年(1587)九州征伐の豊前巌石城戦や天正18年(1590)武蔵八王子城攻撃で軍功をあげ、慶長5年(1600)利長公の大聖寺攻めに従い、帰途浅井畷で丹羽長重の攻撃を受けた時、殿軍を勤め奮戦します。叙爵は従五位下但馬守。禄高は1万5千石。 屋敷は今の石川県立美術館辺りにありました。
(今の県立美術館辺り)
[太田但馬守長知御成敗の事]
その太田但馬守長知が慶長7年(1602)5月4日。金沢城内で前田利長公の命により横山長知に殺害されます。利長公は初め山崎閑斎と横山長知の2人に太田殺害を命じますが、山崎は約束の時間に遅参したため、横山は、助太刀として連れて行った御馬廻組の勝尾半左衛門とともに太田を成敗します。
(金沢城)
成敗の様子は、幾つかある文書では多少違うそうですが、利長公の言行録「象賢紀略」では、この時、太田は横山の帷子を斬り、助太刀の勝尾へも肩に一太刀をあびせ、更にその場にもう一人いた者にも、転んだ拍子にそのすねに脇差があたり、3名に怪我を負わせて、必死で防戦したとあり、後々人々はこの太田の奮闘ぶりを賞賛したといわれたそうですが、殺害された長知の遺体を利長公は城内の極楽橋の橋詰めに置き見せしめとします。
(今の極楽橋)
横山長知(よこやまながちか)は、山城守、通称大膳といわれ、禄高は3万石。加賀八家の一つ横山家の2代目です。 天正10年(1582)父長隆とともに前田利家公に仕え、慶長4年(1599)には、利長公が家康から謀反の嫌疑を受けた時、弁明に赴き、前田家は事なきを得た功労者です。「伴天連追放文」の発布で、高山右近に金沢退去命令が下った時、右近と縁戚関係にある横山親子は京都に閉居しますが、大阪の陣の時に参戦し、その後は加賀藩の執政として国政を預かります。 (永禄11年(1566)~正保3年(1646))
山崎閑斎、長門守長徳(やまざきながのり)は、天正11年(1583)4月の賤ケ岳合戦後、利家公、利長公に仕え、慶長5年(1600)加賀大聖寺城攻撃の軍功により加増され、1万4千石領有します。(天文21年(1552)~元和6年(1620))
(前田利家公銅像)
[太田但馬守長知殺害の理由]
長知は数々の戦で利長公に従って種々の戦功を挙げてきました。浅井畷の戦の後にはその戦功をねぎらって感状を送られ、利長公にとっては従兄弟であり功績者の一人でした。誅殺されたことが近隣の国々に知らされると、いずれの藩も事情が飲み込めず、何故、誅殺されたのか訳もわからず困惑気味だった様子を伝える文書が残されています。加賀藩に於いても太田が屋敷で、狐の子を殺した報いで殺されたと訳の解らない話が飛び交い、取り調べもしないままの太田殺害には狐の仕業としたことに、利長公は後悔したといわれています。
(今の県立美術館辺り)
どうやら太田殺害の原因は、太田の利長公妾との不義密通といえそうです。太田粛清にあたり、横山と共に利長公の命を受けた山崎閑斎は、約束の時間に遅参し、直接殺害には関わらなかったことで、事件の後それまで兄弟のように仲の良かった横山との仲が悪くなったと言われているのは、その事に連座した女中の中に山崎の縁者がいたからだと伝えられています。
「象賢紀略」には、太田が殺された後、御手掛衆(妾)の「おいま」をはじめ、中使の者5人が目を竹筒で抜かれ、見せしめとして家中の人持衆十人ほどに示し、その後殺害されたと言われています。
(「象賢紀略」は、別名「利長公御代之おぼへ書」とも言われています。)
(金沢城の石垣)
他の文書に「太田但馬守誅せらるヽ事」と言うのがあり、その文書では太田は関ヶ原以後、江戸への御使を勤めていますが、家康とたいそう懇意になり、浅井畷のことを尋ねたりして饗応し、馬や刀などまで賜り、利長公はこれを聞いて「如何思召候哉」と言われたとあり、横山と山崎に太田の殺害を命じたのだと書かれているそうです。
太田の不義密通、そして、あまりに懇意になりすぎた家康と太田の関係、家中が横山派と太田派の二つに割れる危機。これらが複雑に絡み合った結果、太田の誅殺されたのが真相のようです。
(今の金沢城石川門)
この事件の前年慶長6年(1601)9月に、徳川秀忠の2女珠姫が利長公の養嗣子後の利常公のもとに輿入れされ、公儀の手前、太田の不義密通、幕府と太田の関係、そして家中が二つに分かれることはなんとしても隠し通さねばということもあったのか・・・?はたまた利長公の嫉妬か・・・?
そのために作られた狐の話だったのでしょうか?狐の報復による奇異な事件とすることで真相を闇から闇へ葬り去る必要があったのでしょうか?
真相が解明されない不可解な事件だけに、殺された太田に同情する者がいたり、ひいては利長公自身がそれを悔やんだりといった話が出来上がったのでしょう。
参考ブログ:
二人の長知~太田但馬守誅殺事件~