【石引4丁目】
皿屋敷!!と聞けば「播州皿屋敷」や「番町皿屋敷」などの怪談話を思い出します。お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「いちま~い・・・にま~い・・・ 」と皿を数える気味の悪い情景を想像し、ビギリまくる人もいそうですが、藩政期の金澤城下には5・6箇所もあったといいます。
幕末から明治の郷土史家森田柿園(平次)がまとめた「金澤古蹟志」第四編 巻十 城東小立野臺中の「皿屋敷」には「出羽一番町入口也。延宝金澤図(1673~1681)に、永原左京第地と出羽一番町の入口との間なる明地となしたり。・・・・」と書かれています。その明地は、宝暦(1751~1764)のころより明治維新まで藤田氏邸地だった屋敷地が皿屋敷と言われたところでした。
(能楽堂前の皿屋敷跡か?)
昔から、低地で水捌けが悪いところを皿屋敷と言ったらしく、ここ藤田氏邸地は延宝以前より明地で、皿屋敷と言われたのはかなり古く、昔から、そこはいばらが生い茂る湿地で子供等に語る昔ばなしでは、播洲皿屋敷はこの辺りだったのでは?と言われていたそうです。
(金沢神社裏下っている)
この播洲皿屋敷伝説は、大筋ではアッチコッチで言われている皿屋敷伝説と概ね同じく「お菊」と言う腰元(金沢では下女)が、お揃いの南京皿を1枚壊し、それに怒った小幡播磨という武士により殺され死骸を井戸に投げ込まれたと言う話で、毎夜死霊が現われ残った皿を数えだし泣きだすというもので、小幡播磨はどうも実在の人物で、何でも父小幡駿河と共に2代藩主利長公に仕え、小幡播磨は父の遺知7000石を拝領していたが、播磨の後はお家断絶になったと伝えられています。
(能楽堂前から石川県立美術館)
参考:最近、金沢歴活の「金沢怪異・怪談」2017年7月29日と30日の前・後編に金沢の皿屋敷のことが、詳しく書かれています。
(石川県立美術館より成巽閣を見上げる)
皿屋敷は更地のことだったの?
金沢の皿屋敷伝説の謎(前編)
皿屋敷伝説は群馬からやってきた?
金沢の皿屋敷伝説の謎(後編)
上記前編によると「屋敷」というのは家のことを指すものだと思われますが、江戸時代の用語では、家の建っている土地のことを「屋敷」と呼んだそうです。
つまり、皿屋敷というのは、更地(さらち)だったことなのか?そういえば、低地で湿地と言えば家を建てるには条件が悪く、それが原因で放置され永年明地になっていたのでしょう。
(幕末の地図の出羽1番町辺り)
確かにあの辺りは、今は低地のようには見えませんが、実際にはかなり低く、明治の練兵場の造成では高低を平にしたという記録もあり、私の子供の頃には、金沢美専(現石川県立歴史博物館)の反対側金沢国税局(現石川県立能楽堂)の敷地がもっと道に迫り出し土手も今より高く道も今よりかなり狭かったように思います。
小学校のころ氏神様の石浦神社の祭礼の帰り、広坂から上がると兼六園球場(現本多の森ホール)の裏までが少し上がっていたようで、家に帰るまでかなり疲れた記憶があります。
(能楽堂と石川県立歴史博物館の間の道)
蛇足:私が住んでいる旧出羽町5番丁(現石引4丁目の一部)は、当時は民家10数軒と他に教会と空き地、病院がある小さな町でした。昔の今もコミュニテイーとしては、平成12年(2000)に町名が復活した下石引と飛梅町で“三交会”という町内会が形成されています。
(香林坊・片町)
(石浦神社)
子供の頃、友達と石浦神社や香林坊・片町へ歩いて行く時には旧兼六園球場(本多の森ホール)の後から旧金沢美専(金沢美術短大)や旧金沢女専(金沢女子短大)の前を通り広坂を下りました。
参考文献:「金澤古蹟志」第四編 巻十 城東小立野臺中「皿屋敷」 森田柿園(平次)他