【寺町5丁目】
日蓮宗妙榮山高岸寺(こうがんじ)は、前田家家臣の高畠石見守一族の菩提寺で、石見守の弟日饒(にちじょう)上人を開山とします。「高岸寺由緒書」によれば元は石川郡鶴来にあり、大豆田へ移り、天正15年(1587)割出の下屋敷を寺地としますが、その後、今の諏訪神社の地に移転、寛永13年(1636)に現在地に建立されました。
(高岸寺)
高畠石見守定吉(天文5年(1536)~ 慶長8年(1603)1月3日(1603年2月13日))は、前田利家公の正室まつの母が再嫁した畠山直吉の孫で、前田家と高畠家との絆はことのほか強く、利家公より一歳上の定吉も「荒子七
人衆」として常に利家公と激戦をとものした側近中の側近でした。
幼少より利家公に仕え、利家公が家督を継ぐと200石を受け、天正の初めに利家公の末妹・津世姫を妻とします。天正11年(1583)鶴来の舟岡城代、文禄2年(1593)七尾の小丸山城代になり、当時の高畠家の禄高は1万7千石。加賀藩では後の加賀八家クラスの高禄でした。
利家公の死後、関が原の戦い前に豊臣側支援を強く主張した定吉は、2代利長公や芳春院(まつ)と対立し、関が原の合戦時は金沢城の留守役を務め、翌年、剃髪し隠居。その後、京の移り一年足らずで息を引き取ったといいます。子孫の禄高は次第に減じ700石になり、屋敷は現在の日本銀行金沢支店のところにありました。
(鐘楼堂より)
高岸寺本堂(建立は文久元年(1861))は、日蓮宗寺院方丈型の大規模本堂として貴重なもので、鐘楼堂(建立は寛政9年(1797)以降)は、今、鬼子母神をお祀りしている祠堂の上にのる2階建です。このように本堂と鐘楼堂が一体となった建物は余り類がなく、鐘楼というよりは「見張り台」のように見えます。そうだとすれば、3代利常公の頃まで、寺町寺院群の中核は高岸寺で金沢城の出城の役目を担い軍事的に重要な地点だったことが浮かび上がってきます。
(突き当たりが金沢城 辰巳櫓)
(今の辰巳櫓)
本堂と鐘楼堂、附 棟札7枚(むなふだななまい)は金沢市有形文化財です。 平成20年5月1日指定。
(撞かずの鐘)
≪鐘楼堂の鐘≫
その鐘は藩政期、周辺に不審な動きがあれば、金沢城へ合図を送るためのものであったと伝えられています。かっては「撞かずの鐘」と呼ばれ打ち鳴らすことはほとんどなく、金沢城の「見張り台」であることを隠すための鐘楼建築で、藩の機密事項に当たるため文書はなく口伝で代々語り継がれていたそうです。鐘は戦時中供出しますが、平成22年(2010)から本堂および鐘楼堂の修復工事にあわせて「撞かずの鐘」を復元し平成24年(2012)4月23日に落慶法要を厳かに執り行っています。
(本堂と鐘楼堂の解説板)
鐘楼堂は、一寸不安に感じる普通の梯子を登ると、狭い空間に大きな鐘がありました。花頭窓から金沢城の石垣も見え、鐘つき棒はり固定されていて撞けなくなっていましたが、6人も入ると満員になり鐘に頭に当り、かすかに鳴ってしまってハラハラさせられました。
≪修復中の曼荼羅の額≫
明治元年(1868)4月、明治政府が神仏分離令(神仏判然令)を布達すると、やがて廃仏毀釈の行動へと発展します。日蓮宗では、神仏分離令に引き続き、同年10月10日に「法華三十番神の称を禁止」する旨の令を下され、また天照大神、八幡大菩薩を曼茶羅に配祠することも禁じられます。
(修理中)
(薄い群青で消してある、天照大神・八幡大菩薩)
配祠とは、神社の主祭神に添えて、その神様と縁故のある他の神様を祀ることをいう。
(修復中の曼荼羅の額には、天照大神、八幡大菩薩が消されていますが、修復後は消されたママにするそうです。)
(13代斉泰公の揮毫)
≪3代利常公が命名した「犀枩軒」≫
茶室「犀枩軒」は、今、現存しませんが、3代利常公が名付け、13代斉泰公が揮毫したという「犀枩軒」の額が残っています。歴代藩主が野田山墓地に参詣のおり、お立ち寄りになられ、茶室でお茶を献上したと伝えられています。
≪板戸の図≫
高岸寺の板戸は、もともと金沢市高尾で農家を営んでいた中山久左衛門家にありましたが、昭和の中頃に宅地開発のために高岸寺に移されてきました。中山家は、高岸寺の先代住職の実家にあたり,今も個人宅に同様の板戸が数枚残されているといわれています。
(板戸:獅子図は狩野派の画風で、花鳥図は具象的な描かれています。これらは写実性重視の傾向が強くなる江戸後期のものらしい・・・。)
参考文献:日蓮宗妙榮山高岸寺パンフレット他