【金沢】
第2章「鉄心石腸」では、日本国内の状況や加賀藩のことが詳しく書かれ、文次郎と一郎は、福岡惣助の未亡人卯乃をめぐり、小説ならではの淡い恋やフィクションだから書ける郷土の偉人高峰譲吉の少年時代を義賊(農作物泥棒)として登場させ、笠舞の「お助け小屋」や卯辰山の「養生所」や「撫育所」に繋いでいきます。
(金沢城)
鉄心石腸(てっしんせきちょう):いかなる困難にも負けない、鉄や石のように堅固な精神。文次郎と一郎は目指すところが多少異なりますが、時に意見が対立し激論となることもありますが、互いに精神は堅固で仲もよかった・・・。
(卯辰山の養生所)
慶応元年(1865)主導権は幕府から薩長両藩に移り始める年で、慶応2年(1866)1月に薩長同盟が成立。加賀藩では、13代斉泰公が隠退願いを幕府に提出し、2月には14代となる慶寧公が江戸に上ることになり、千田文次郎と島田一郎は、その隊列に加わります。7月下旬に金沢に帰還し、新藩主慶寧公を祝うため、月末まで盛大に「盆正月」が催されます。
「盆正月」:加賀藩では藩政期、民衆が集まることを嫌う藩は、町人が金沢町で惣祭を行うことを禁じていました。その代わり前田家の嫡子誕生や官位昇進などの慶事などで、藩の命令により城下挙げて祝ったのが「盆正月」で、庶民のガス抜きとしても機能しました。
(金沢城・三十間長屋)
8月初旬には、加賀藩へ一橋慶喜より上洛の要請が届きますが、年寄1人を上洛させ、慶寧公は事態を静観していいます。しかし、京都にいた将軍家茂が亡くなり、第2次長州征伐は中止になり、京の混乱は避けがたく、慶寧公は、禁裏の守備を条件に上洛します。一方、加賀藩においては、新たな方針「三州割拠」が打ち出され、加賀、能登、越中を割拠し、福沢諭吉の西洋事情等を取り入れ「殖産興業」「富国強兵」を努め、幕府にもその反対勢力にも与しないことを実行します。
(壮猶館の門)
物語は、砲術や航海術そして蘭学や西洋医学など西洋の学問を教える「壮猶館」、さらには鈴見の鋳造所、牛坂弾薬所、七尾の軍艦所など藩の施設や「梅鉢海軍」の活躍。やがて戊辰戦争から北越戦争に発展するくだりまで実の克明に書かれています。
拙ブログより
「三州割拠」「戊辰戦争」「笠舞お助け小屋」「卯辰山開拓」
卯辰山開拓(その1)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11548045886.html
「高峰譲吉」
高峰譲吉①~⑤
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11769823496.html
「卯辰山養生所」「卯辰山撫育所」「北越戦争」
卯辰山開拓(その4)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11554734677.html
「笠舞お助け小屋」
小立野古地図めぐり④亀坂と御小屋坂
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11902550557.html
さらに、執政本多政均の失政への怒り、そして藩の洋式部隊の伍長を仰せつかり、戦争へそして終結。文次郎や一郎が足軽より一段階上がり「御歩並」にそろって昇格し、切米30俵を受け、明治2年(1869)の「版籍奉還」までが、克明に生きる姿が、史実にフィクションを交え、分かりやすくお書きになっています。
(西郷隆盛)
当時は日本の植民地化を狙う諸外国に、幕府は対応しきれず、不平等条約と言われた日米修好通商条約を締結します。そんな中で「これではいけない」という志を持つ若者たちが次々と現れ、志士活動に邁進します。そして、その大半が死んでいきますが千田文次郎、島田一郎は明治までしぶとく生き残ります。
それでも彼らの生き残りにより明治政府は樹立されますが、その恩恵に浴し、明治政府の顕官の座を独占したのは、薩摩・長州・土佐・肥前といった維新の原動力となった藩出身の志士たちで、この4藩による藩閥が明治政府を形作っていきます。
(つづく)
参考文献:「西郷の首」伊東潤著 平成29年9月29日 角川書店発行
(伊東潤略歴1960年神奈川県生まれ。早稲田大学卒業。「国を蹴った男」で吉川英治文学新人賞、「巨鯨の海」で山田風太郎賞と高校生直木賞を受賞。ほかの著書に「悪左府の女」など。)
「七連隊・千田中尉西南戦争の秘話」大戸宏著 月間アクタス(平成8年4月号)北国新聞社発行ほか