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小立野の旧百々女木町から木曽谷

【石引1丁目・宝町・東兼六町】

兼六園から石引通りの中程。ビルの柱に「利家と松の寺宝円寺」が目に入ります。左に曲がると、そこは藩政期、前田家の菩提寺宝円寺の参道でした。今は石引1丁目ですが、昭和39年(1964)までは辰巳用水の分水に架かる橋(百々女木橋)までが上百々女木町と書いて“かみどゞめきまち”。その先さ宝円寺までが、下百々女木町(しもどゞめきまち)といいました。現在そこは、かって与力町と呼ばれていた金大病院や金沢大学の医療保健学類も含めて宝町といわれています。因みに、宝町は宝円寺の“宝”だそうです。

 

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(石引1丁目)

 

百々女木(どゞめき)!!一寸珍しい呼び名ですが、森田柿園の「金澤古蹟志」によると、昔、辰巳用水の分水に架かる橋から木曽谷に下る水音が、とても激しく轟いていたので、「百々女木橋(どゞめきばし)」といったことによるものらしい・・・。

 

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(百々女木橋跡)

 

「金澤古蹟志」の”百々女木橋”を要約すると

「大昔、小立野荒野山中の頃は、この橋辺りは木曽谷へ続きたる深谷で、樵人(木こり)が通うため架けた丸木橋で、小立野台が市中になり、両岸を埋め込み、今(明治時代)のように成りました。昔は深谷の谷川で、巌石に打たれ岩瀬の音が轟きで、百々女木町と呼び始めたようで、この橋名は奈良のとどろきの橋と同意にて、「どゞめき」といわれたようです。今、「どんど」と言うのと同じ。「亀の尾の記」にも、この橋の上流に分水の堰あるがゆへに、「どゞめき」というとあります。」

 

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(起元2600年記念舗装の標柱)

 

今は、橋はなく舗装された道路になっています。現在、かって橋があった隅の標柱から想像するしかありませんが、標柱には「紀元二千六百年記念舗装」とあるので、昭和15年(1940)の皇紀2600年に橋がなくなり暗渠にし、坂も途中まで暗渠になり橋の名の元となった轟音も聞こえなくなったのでしょう。

 

≪金澤古蹟志”百々女木町”の原文≫

元禄9年(1696)の地子町肝色煎裁許付に、どゞめき近所地子町とありて、どゞどめきの名は橋梁のなより起こりたるものなり、享和3年(1803)幕府へ進達の町名書には、「轟来町」とす。按ずるに、どゞめきを百々女木とかきつものは、越中国射水郡百米木村というあり。この村名をどどめきと呼べり。又能登国鳳至郡に百成村というもあり。百成2字でどうめきと呼べり。これも元はどゞどめきと呼ばれけん。苗字の百々どゞと訓めり。どゞは假字の百々或はの一字を用いるは如何なる由なるか、訓義いまだ詳からず。若し十々の意にてもあるべし。

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(赤Aは百々女木橋・赤Bは今の木曽坂標柱・赤Cは成瀬の小城)

 

この流れは、昔、辰巳用水が造られた時、天徳院から如来寺、経王寺の周りに堀を巡らし、その余り水小立野台地の百々女木橋から木曽谷へと流したと聞きます。現在は、橋跡から下る坂になり水路は暗渠で、旧安藤町の裏の坂辺りから開渠になります。その先、木曽坂の一部が暗渠で、木曽橋の少し先から開渠になり、そこから、わずかに往時の風情を感じられる風景が現れます。

 

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(旧安藤町裏坂辺りから開渠になる)

 

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(現在、木曽坂といわれているのは宝円寺裏坂下にある木曽坂の標柱から安楽寺まで、昭和7年(1932)、失業対策の一環として開削されたものです。また、この川が名称を源太郎川と言われていますが、その名称は一説によると藩政期、浅田源太郎という橋番が居たので、その名が付いたといわれていますが、川の範囲があいまいで、しかも、その名は、藩政期の郷土史に詳しい「金澤古蹟志」にも「加能郷土辞彙」にも書かれていないのが気になります。)

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(裏坂と木曽坂の交差するところのある木曽坂の標柱)

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(木曽坂の標柱)

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(裏坂と木曽坂辺り)

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(木曽坂から見える風情)

 

やがて宝円寺の裏坂と交わるところに「木曽坂」の標柱が見えます。そこから木曽坂の道沿いの家々の後ろに小立野台地の北側斜面が見え、右側上方には宝円寺の裏手の崖がそそり立ち、流れは木曽坂の左手の高く聳える紫錦台中学校、北陸学院の裏手の下も雲龍寺安楽寺墓地の間を流れ、安楽寺前から永福寺をかすめて道路を横断し、民家の裏手を掻い潜って進んで行き成瀬の小城で、藩政期、石引の通りを流れる辰巳用水が兼六園の山崎山で分水し霞ヶ滝(現在はありませんが、今の兼々御亭の駐車場あたりか?)から落ちて東外惣構となる流れと合流します。

 

(藩政期、その谷間まさに木曽路の渓谷のような風情があり“木曽谷”に似ている事から「木曽谷」と呼ばれたそうです。)

 

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(木曽坂風景)

 

木曽谷伝説:木曽坂城(現宝円寺)は、寿永3年(1184)木曽義仲の討死により、夢破れた木曾義仲軍の樋口次郎兼光の一族が、敗残の身を故郷木曾谷に似たこの地に定住したのだと伝えられています。その子孫は文明6年(1474)の“文明の一揆”で若松の地頭狩野氏と共に富樫幸千代側に付いて敗北したといいます。

 

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 「消された城砦と金沢の原点を探る― 一向一揆時代の金沢・小立野台地周辺考」辰巳明著


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