長町のひるさがり―県庁のご紋章―
【長町・旧御仲間町・旧小立野与力町】私のブログは泥縄式です。先日、小説「西郷の首」を読み、関連図書を調べていて金沢の大戸宏著の金沢小説小品集Ⅱ「長町のひるさがり―南州翁の首―」に辿りつきました。この小品集は18篇の地元を題材にした短篇小説で、知ってる地名や聞いた話しもあり、ついつい面白くなって読み込んでしまいました。今回もブログは行き当たりバッタリになります。 (長町ひるさがり)...
View Article千田文次郎登文と戊辰(北越)戦争
【金沢・長岡・奥羽各地】慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見で戊辰戦争の戦端が開かれます。兵力の火力も徳川方が上回っていたが、徳川方の火薬庫に朝廷方の砲弾があたり、大爆発し、驚いた徳川方は敗走がはじまります。...
View Article千田文次郎登文と明治維新
【金沢・名古屋・東京】明治新政府は、明治2年(1869)6月、「版籍奉還」では土地と人民を天皇にお返しします。加賀藩では、城を新政府に明け渡し、藩庁を加賀八家の長邸に設置され、藩主は藩知事となり城を出て本多邸に仮住まい、武器などは新政府のものとなり、城内には士官生徒を養成する斉勇館が設置されます。 (金沢城石川門)...
View Article千田登文と西南戦争①乃木希典
【名古屋・金沢・熊本・鹿児島】明治10年(1877)2月22日、聯隊本部ならびに第2大隊は神戸着。3月25日に征討軍指揮下に入いり、第1大隊は3月2日に金沢を出発します。一方、第3大隊は高知県に派遣され、高知の士族決起の警戒に当たります。 (金沢城の歩兵7聯隊)...
View Article千田登文と西南戦争②西郷説得の密命?
【鹿児島】明治10年(1877)4月22日、千田登文(のりふみ)は総督本部詰を命じられ、次に第4旅団の伝令となります。後年であれば聯隊旗手が聯隊をはなれるということは考えられませんが、この時代は融通無碍であったのでしょう。登文中尉は旅団主力とともに、熊本から船に乗り、一気に鹿児島に上陸します。...
View Article本多政均暗殺と仇討ち①暗殺まで
【金沢藩・金沢城】本多播磨守政均(まさちか)は、安政3年(1856)に兄政通が夭折したため五万石の家督を継ぎ、万延元年(1860)23歳の若さで加賀藩城代に任じられ、藩主前田斉泰公の信頼が篤く、政均は、「梅鉢海軍」と俗称された加賀藩海軍の建設に熱心に取り組むなど、西洋軍制の導入をはじめ改革を積極的に推し進めます。 (金沢城石川門一の門、二の門)...
View Article本多政均暗殺事件と仇討ち②陰謀説と事件
【金沢藩】「土佐さん、はようらと出ておくれ、安房餅ゃしだいに、手に合わぬ」(政均の政治のやり方は適切ではなく、早く前田土佐守が出てきて、政均にとって代わって欲しい。という意味らしい・・・) (石川門)...
View Article本多播磨守暗殺事件と仇討ち④仇討ち
【金沢県】明治4年(1871)7月、金沢藩は金沢県に変わります。その頃、県庁は長町の長家の屋敷にあり、岡野悌五郎と多賀賢三郎は70日の禁固刑を経て、県庁の役人小属(判任官12等兵隊の位で言うと軍曹)に任じられていました。...
View Article本多播磨守暗殺事件と仇討ち⑤最後の仇討ち
【金沢県・石川県】“かれらこそ第二の赤穂浪士、いや「本多義士」と称えられてしかるべきだ”という感想を抱く者は、県庁の上層部にも少なくなかったと伝えられています。しかし、御一新の時代では、表向き義勇の武士として誉め称えられず、新しい法典によって裁かれることになります。 (大乗寺総門)...
View Article小立野の旧河内町・旧三所町「紫錦会」
【旧河内町・旧三所町】土取場の北西に位置する旧河内町は、藩政期加賀八家の一つ奥村家の家中町(下屋敷)で、現在、金大病院に入る取り付け道路の石引通り沿い、北陸銀行から別所文玉堂の向い小路(旧三所町)までの約150m、奥行き約50mをいい、明治2年(1869)町立されます。 (今の旧河内町・金大病院前)...
View Article小立野のあんどん町(安藤町)
【石引2丁目】上あんどん町、中あんどん町、下あんどん町!!石引通り中石引町の北東に位置する三筋の小路の通称で、漢字で書くと安藤町です。私の通った旧石引町小学校と同じ校下にあり、近くなので物心が付いた頃から、大人達の口移しで、何の疑問も持たず”あんどん町“と呼んでいました。 (安藤町の標柱・2月6日平成で2番目の大雪風景)...
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