小立野の下石引町(平成12年4月1日復活)
【下石引町】安政期の絵図を見ると、小立野の石引大通りの左側、今の聖ヨハネ教会前の小路から兼六園までを下石引町と描かれています。明治3年(1870)の地図では、石引大通り左側の奥村家下屋敷と右側の兼六園寄りの奥村家上屋敷が下石引町になり、昭和38年(1963)の町名変更までそのまま続きます。その町名変更では下石引町や飛梅町(藩政期は前田長種家の下屋敷)等も含めて「石引4丁目」となります。...
View Article小立野の古蹟は山崎山だけ!?①山崎山
【小立野】小立野の石浦郷山崎村は、藩政期以前、山崎山の原野で、山崎山或いは山崎領という遺名で呼ばれていたといいます。この地は、白山より連続する山のしっぽに辺り、山の先端(さきっぽ)から山崎山と云い、この山名から山崎村と云ったと云われています。藩政期初期は小立野より金沢城までが山林で、土地は平均化して武家地や組地、町地とし、石引町などの町名が立てられました。 (兼六園の山崎山)...
View Article山代温泉①ほっと石川観光ボランティアガイド加賀地区大会
【加賀温泉郷・山代】平成14年(2002)に発足した「ほっと石川観光ボランティアガイド連絡協議会」に加盟する石川県内の各地区では、年3回持ち回りで開催される研修会が3月16日今年度最後の研修が加賀地区山代温泉で開催され、1年6ヶ月ぶりに私も参加させて戴きましました。 (ほっと石川加賀地区大会1) (ほっと石川加賀地区大会2)...
View Article山代温泉②魯山人寓居跡「いろは草庵」
【加賀温泉郷・山代】大正4年(1915)10月、細野燕台の食客として金沢に滞在していた福田大観(後の魯山人)が燕台に伴われ山代の吉野屋で、主人の吉野冶郎に会います。治郎は書画骨董の数寄者で世話好きの当時55歳。その吉野家には、燕台の書いた看板がすでに掛けられていたが、治郎に自分の看板より、この男の書く看板に改めないかと、熱心に勧めたといいます。 (魯山人寓居いろは草庵)...
View Article山代温泉③たちばな四季亭
【加賀温泉・山代】思いがけず、山代のボランティアガイドの皆さんのご配慮と老舗旅館「たちばな四季亭」のご理解により、当旅館のお宝を見学させて戴きました。この場を借りてお礼を申し上げます。有難うございました。「たちばな四季亭」の前身は明治元年(1868)創業で田中屋旅館といいました。平成2年(1990)に全館を新築し、館名を「たちばな四季亭」と改め、リニューアルオープンしたと聞きます。...
View Article東の廓と燕台(えんだい)さんの艶談(えんだん)
【ひがし茶屋街】燕台さんには、東の廓(ひがし茶屋街)に2人の囲い者(お手掛けさん)が居たと聞く・・・。囲い者と言っても、妻曾登に隠れて、こっそり別宅などに住まわせていたわけではなく、妻も公認!?当時、燕台さんには年端もいかない娘がいて、その娘玉映を連れて別宅に行ったこともあり、娘は曾登に、綺麗なお姉さんに可愛がってもらった話をして、曾登も苦笑いしたという話が今も語り継がれています。...
View Article大観(魯山人)と「山の尾」太田多吉の出会い
【ひがし茶屋街】大観(魯山人)は、大正5年(1916)正月。山代での看板の仕事を終え、多少懐具合もよくなり、金沢に帰り十間町の燕台さんの店の近く上博労町の下宿で仮住まいをします。実は、金沢で遣り残した事があり、金沢や山代に滞在中、名前だけは知っていた山の尾の太田多吉に会う事でした。山の尾の太田多吉と燕台さんは昵懇の間柄でしたが、なかなか紹介して頂けず、大観(魯山人)は一計をめぐらせます。...
View Article小立野の旧上野村①~上野新村へ
【錦町→上野本町→小立野1~5丁目】ここのところ脱線に脱線で、小立野から離れていましたが、我が地元小立野が中途半端では不本意ですから、今回より小立野に戻し山崎村の後継上野村を藩政期から戦後までを調べることにしました。 (明治38年の金沢市街図部分・玉川近世史料館所蔵)...
View Article小立野の旧上野村②旧崎浦村字上野新村
【小立野1~3丁目・上野本町】上野新村は、前回も触れましたが、藩政期、すでに一部が町方住民や武士が農地を相対で借り請ける相対請地が多くなり、その請地は貞享4年(1687)の相対請地の御触等裁許は町奉行が行なうと定めます。文政4年(1821)には、上野新村の相対請地は上野町として住民は町奉行の支配下に入りますが大半の農地は上野新村として、明治維新を迎えます。 (上野新村の田圃から眺めた山々)...
View Article小立野の旧町名③上・中・下弓ノ町
【小立野5丁目】昭和39年(1964)4月1日に、旧上・中・下弓ノ町が小立野5丁目に町名が変更になりました、上・中・下弓ノ町は、金沢市公式ホームページの旧町名欄に「天和の頃(1681~1683)から足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、通称小立野弓ノ町と呼ばれ、明治5年(1872)、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地は下弓ノ町となった」とあります。...
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