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小立野の旧上野村①~上野新村へ

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【錦町→上野本町→小立野15丁目】

ここのところ脱線に脱線で、小立野から離れていましたが、我が地元小立野が中途半端では不本意ですから、今回より小立野に戻し山崎村の後継上野村を藩政期から戦後までを調べることにしました。

 

(明治38年の金沢市街図部分・玉川近世史料館所蔵)

 

前回までの振り返り:小立野のルーツ山崎村の村地は藩政期まで、現在の兼六園の山崎山を中心に金沢城の極楽橋あたりから小立野石引町辺りを山崎村と称し、藩政期には村地が追々町地になり経王寺が建てられる前の地へ転地するよう命じられますが、それも経王寺を建立したので、利常公の御母堂寿福院殿、毎度の参詣に道路は村家があり見苦しく、目障りになる事で、村を上野村の地へ移転し、村名も、新村では無いので上野村とします。

 

(上野八幡神社)

 

参考ブログ

小立野の古蹟は山崎山だけ!?①山崎山

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12357314874.html

 

“上野”の名は「三壷記」に、正保3年(1646)田中覚兵衛という牢人が小松殿(利常公)に言上し、寺津村の石嶋という所より用水(現寺津用水)を堀り上げ、土清水の山の腰を掘り廻し、牛坂(うっさか)の上野土清水野とを田地に開発したことから、牛坂の“上の村”ということで「上野村」という村名が起こったといわれています。

 

(金沢古蹟志によると、当初は村名も、山崎の旧民であることから新村では無いので上野村としますが、寛永7年(1630)辰巳水道(用水)の余水をもって田地を開くよう上野村、涌波新村、三口新村が仰せつかり、上野村は、延宝6年(1678)に上野新村と改称します。)

 

 

(旧上野町の現風景を彷彿させる旧金大工学部跡地)

 

山崎村の村地の残り山崎領(崖下)は、笠舞村へ合併し笠舞村より年貢が納められます。この地は昭和になり、金沢市に合併し田圃たけでしたが長谷川町と呼ばれていました。現在は金沢市笠舞2丁目になり田圃はなく民家が立ち並んでいます。

 

ところが村立の事については、改作所旧記によると、元禄7年(16942月、上野、三口、涌波3ヶ村肝煎連名の言上書に、上野新村、三口新村、涌波新村、60ヶ年以前より御水道上水の余水を使うことが許され、以来、利常公の時代に不毛の地が、今千石余の田地に成ったとあります。

 

(上野新村の「村御印」は、新京枡に改められた寛文10年(1670)に草高55156合(免四ッ五歩)、三口新町は231石(免四ッ五歩)、涌波新村は18726合(免四ッ五歩)であった。)

 

城下に近い上野新村は笠舞村、田井村と同じく、相対請地により多数の家が建ち、寛文2年(1662)には、相対請地制限令が出されますが、相対請地が止まらず、村方では裁許が出来なくなり、金沢町方に依頼して金沢町方支配となり、文政4年(18212月には、それらの相対請地の地域に対し、町名を付けたり、最寄の田地の支配を属させ、上野村領は上野町に属するようになります。

 

(相対請地:前田氏の金沢入府以降、金沢城下の拡大や寺院の建立・移転に伴い、小立野台も次第に町場化して行きます。近世を通して町地の拡大は続きます。相対請地は、農民の土地を町人に貸したもので、そこに住む人々は職業でみると日雇が半数、下級武士、大工・鍛冶・笠縫などでした。)

 

明治12年(1879)周辺に散在した相対請地は120余町が正式の町地として編入されます。以下、旧上野新村地区の町名の町々が編入されています。

松下町・小立野新町全部・上野町全部・上弓の町・土取場撞木町・土取場永町・元鶴間町・下鶴間町・上石引町)

 

 

(古墳の雰囲気を残す上野八幡神社)

 

小立野の牛坂辺りは、昔から古墳があり大きく多く有ったと伝えられています。しかもその古墳は庶民の墓ではなく、伝説によると一向一揆以前の富樫氏代々の遺墳で、富樫政親以下は、近世には釈賊と言われたためここに墳墓を築くことが許されず、政親、泰俊、晴貞の墳は野々市や伝燈寺など所々に散在しています。

 

(上野や牛坂の村地は、大昔、埋葬の地で、上代高貴の墳墓で、現在の上野八幡や旧金大工学部の地は古墳の一域で有ったそうですが追々崩し平地にし、今はわずかに上野八幡の社地の古木が残っているにすぎません。)

 

天徳院・金大工学部(旧金沢高等工業)・上野練兵場(射撃場)が見える

(大正10年の缶沢市街図部分・玉川近世史料館蔵)

 

牛坂は、かって金沢城修築の石材を戸室山から下田上の浅野川を渡り、引き上げたという坂で、今は野坂と言われている坂ですが、その坂道は、人の行き来は殆ど無く、下田上橋から小立野旧弓の町に至る旭坂の途中から小立野に旧金大工学部の南側の道路に至り、そこを進んで行くと旧小立野新町、亀坂経由で金沢城に至ります。大正時代の地図を見ると、坂を上がると4万坪と言われた旧軍の上野射撃場を横切っています。

 

 

(今の野坂)

 

参考ブログ

石引の道“野坂”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11084631627.html

牛坂(うっさか)は・・・どっち!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11266746371.html

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行


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