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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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金沢・観音町復活③観音院の現世利益 

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【東山1丁目】

旧暦の710日。観音院では毎年縁日が行われます。この日を“四万六千日”といい、お参りすると46,000日(126年)の功徳があるということで、昔から金沢の人々はこぞって参詣したと伝えられています。また、1升枡にお米が46,000入るから四万六千日だという説もあるそうです。また、諸病治癒に、筮竹のような百本の籤で病を占い、籤には番号が100まで付けられていて、別に備えてある処方箋の台帳ようなものと符合すると処方箋を発行するようになっていました。信者はその処方箋を持って街の薬舗で薬を処方してもらうシステムです。

 

(金沢には、八坂の永福寺でも良く似たシステムがあったと聞いたことがあります。)

 

 

(今の観音院

(諸病占い)

 

藩末に書かれた柴野美啓の「亀の尾の記」によると、四万六千日の日には「所狭しと茶屋が軒を連ね、見世物、のぞきの類までここに建ち、繁盛に驚けり」とあり、また、幕末に庶民が書いた日記「梅田日記」に記載されている丸山茶屋についても「定茶屋があり、酒肴をひさぎ、楊弓場があり、また、崖下の浅野川に向かい土器を投げた」などと書かれ、当時の寺院空間での行楽の様子が記され、縁日だけの留まらず、普段でも市民のラウンドマークとして参詣者で賑わっていたようです。

 

このエリアには、観音院、山王社のほかに、医王院、愛染院、市姫宮、そして三重の塔、能舞台、定茶屋の丸山茶屋、広場があり、地下には洞窟が掘られていたそうで、観音院の胎内めぐりだったのか、はたまた軍事用か、よく分からないそうですが、工事方法は辰巳用水と同じらしい、また、昭和15年(1940)頃、浮浪者の通称初太郎が、この洞窟をねぐらにしていて、東の廓に手伝い等をしたという伝説が残っています。

 

参考ブログ

四万六千日と“七稲地蔵尊祭礼”

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11338926008.html

“心の道“癒しのスポット②観音院

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11151914929.html

 

明治28年(18951月、日清戦争で戦死者奉る忠魂堂の建設計画が妙慶寺(浄土宗)など金沢の仏教界が中心になり展開され、観音院跡に決まり、その年の11月に祝建式が行なわれ、明治31年(1898)に慰霊式が行なわれてます。

 

 

(現在の倶利伽羅不動寺)

卯辰山の豊国神社の下に招魂社(後の出羽町石川護国神社)がありましたが、これは仏教式で創建しようとしたもので、建設募金も半官半民で、建築費の不足分は各町会で割り当てたもので、単に慰霊施設に留まらず、戦死者の遺品を保存展示していたそうで、全国に9ヶ所あったそうです。現在の浅田屋さんのところで、建物は、戦後、倶利伽羅不動寺として移築されました。

 

 

(市民の住宅)

 

(現在、浅田屋の松魚亭や六角堂のところは、しばらく空き地になっていましたが、金沢市が宅地造成に入ります。今も何軒かの立派な市民の屋敷が有りますが、市民には浅田屋さんの店舗が独占しているような印象です。)

 

参考ブログ

伝説ですか実話ですか「安政の泣き一揆」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11282842364.html

 

参考文献:参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「金沢郷土辞彙」金沢文化協会 日置謙著 昭和17年発行ほか

 


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