【東山1丁目】
観音町は、明治以来昭和41年(1966)まで、観音山下より浅野川大橋詰めまでの道筋で、大橋側が観音町1丁目、道筋の真ん中より山際までが観音町2丁目、卯辰山の中腹までが観音町3丁目と言いました。昭和41年以降は1丁目、2丁目が東山1丁目になり、3丁目の一部はそのまま観音町3丁目として残りました。今は人家も少なくなり、一時は廃屋が目立っていましたが、それも今は無く、観音町3丁目の裏坂沿いに数軒が寂しく佇んでいます。
(旧観音町1丁目の町並み)
(裏坂の現在も観音町3丁目)
(調べると、観音院の裏坂は明治42年1月、金沢市は皇太子行啓記念事業として観音町から卯辰山忠魂堂に至る道路の開さく認可を申請し、4月に工事がはじまえり、向山(卯辰山)観音(裏)坂7月25日開通式とありました。)
(観音坂・裏坂から旧観音町2丁目を望む)
藩政期は観音院の参道(幅約4m、長さ約400m)を観音町、観音大工町と呼ばれていました。当初は狭くて曲がりくねった道筋でしたが前田光高公の時、参詣に不便なので道を拡張し直道にしています。観音町と呼ばれるようになったのは寛永年間(1624~1644)の終わりか正保年間(1644~1648)の初め頃だといわれています。
(観音院の住所表示)
元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に観音町・観音町古道町と観音町山の下町と並ベて載っています。この観音町・観音町古道町が、旧観音町1丁目~2丁目にあたるようですが、山の下町は旧御歩町に続く、旧豊国町に属していたと思われます。此の地辺は浅野川の河縁にて、観音山の麓を観音山の下町と呼んでいたようです。
(今の観音院)
≪観音院は卯辰山王社の別当≫
観音院は、開祖祐慶が卯辰山愛宕社の別当明王院の2世で、隠居して観音山へ移り、観音堂と隠居所を建立し観音院と号し卯辰山山王の別当となります。宗派は高野山真言宗、山号は卯辰山(長谷山)。元々石浦山王社を勧請したもので本尊十一面観音菩薩像は行基菩薩の御作で大和国長谷観音の末木で作られたと伝えられたものですが愛宕明王院の祐慶が石浦山王から借り受けたものでした。
参考ブログ
金沢の”愛宕権現“
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11294577851.html
よくは知らない!
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11336374257.html
(観音院縁起)
天正10年(1582)に、愛宕明王院として尻谷坂(今の兼六坂)上で奉祀したものを、慶長6年(1601)に愛宕明王院を卯辰山に移し時、明王院の隣の地(今の宇多須神社の裏)に堂宇を立て移します。ところが慶長11年(1606)石浦七ヶ村氏子の訴訟で、行基菩薩御作の仏像が石浦村に返還され、新しく仏像をつくります。
(観音院坂の階段)
慶長18年(1613)前田利常公の娘亀鶴姫の宮参りの際、境内が狭いため不便が多かったので観音山の地を請い受け、元和3年(1617)利常公夫人(珠姫)により、新たな堂宇が起こされ、利常公も客殿、庫裏を寄進します。これらの建物も宝暦9年(1759)の大火で焼失、後に再建されます。
(観音院の平面図)
観音院は、明治元年(1868)、神仏混交廃止令により、本尊十一面長谷観音以下、仏像、仏器は医王院に移し、別当観音院住職は復飾し、長谷大膳と改称し豊国神社の神官になり、観音院の寺号を廃止します。昭和10年(1935)には、医王院を林屋亀次郎氏と綿貫佐民氏が発起人になり観音院(名義は医王院)を再興します。昭和30年代(1955~1965)には、崖崩れにより、現在、墓所となっているところから、昔、愛染院のところへ観音院(医王院)を移しました。
【観音院略図)
(山王社は大山咋神と大国主神を祭神としますが、藩政期前田家では、藩祖前田利家公の遺命により豊臣秀吉を密かに合祀していました。明治2年(1869)、社号を豊国神社とし正式に豊臣秀吉を主神とし、旧観音院の本堂に移しますが、明治19年(1889)社殿を殿町に移し、さらに明治40年(1907)には現在の卯辰三社に遷座し現在に至ります。)
(つづく)
参考文献:参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「金沢郷土辞彙」金沢文化協会 日置謙著 昭和17年発行ほか