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小立野の旧上野村②旧崎浦村字上野新村

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【小立野13丁目・上野本町】

上野新村は、前回も触れましたが、藩政期、すでに一部が町方住民や武士が農地を相対で借り請ける相対請地が多くなり、その請地は貞享4年(1687の相対請地の御触等裁許は町奉行が行なうと定めます。文政4年(1821には、上野新村の相対請地は上野町として住民は町奉行の支配下に入りますが大半の農地は上野新村として、明治維新を迎えます。

 

(上野新村の田圃から眺めた山々)

 

(明治元年(186812月、明治新政府は近代的な税制の確立を迫られます。農民の土地所有を認め、明治4年(1871)には田畠勝手造りの布告、明治5年(1872)に地所の永代売買の禁止を解き、土地の売買・譲渡に際して地券が発行され、明治6年(1873)に、地租改正条例を発して地租に着手と矢継ぎ早に税制の改正が施行されます。これは明治政府の富国強兵、殖産興業の国策を推進するため、他産業も期待できない段階で、財政安定には農村からの租税に頼るしかなかったと言われています。)

 

 

(旧上野町の石標)

 

明治12年(1879)には、居住地は上野町及び小立野新町として金沢に編入され、その他の相対請地は、それぞれ松下町(横山繰蔵人家下屋敷等)・土取場撞木町・土取場永町・上弓の町(足軽組地)・元鶴間町(門前地)・上石引の一部を編入します。(詳しくはウィキペディア小立野参照)

 

(旧上野町の旧家)

 

上野新村の歴史を語る上では、忘れる事の出来ない処があります。それは辰巳用水寺津用水です。辰巳用水は、ご存知のように犀川から金沢城へ水を引くため造られたのは有名で、藩命により、高台のため水不足になるため余水が上野新村や三口新町、涌波新町の水田を潤しました。

 

参考ブログ

犀川から浅野川・・・辰巳用水①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11727805597.html

3代藩主利常の決断・・・辰巳用水②

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11728810935.html

板屋兵四郎・・・辰巳用水③

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11731040659.html

 

(旧金大工学部前を流れる辰巳用水)

 

寺津用水は、前回も書きましたが、上野村の名「三壷記」の寺津用水の項に書かれていますが、実際の寺津用水は、辰巳用水が完成した14年後の正保31646に田中覚兵衛が上野や土清水野の灌漑のため言上しますが、その18年後、寛文41664に工事に入り翌年完成したもので、辰巳用水が“いざ”と言うときの「切り札」に備えたものと言われていますが、藩が本格的に寺津用水に取り組む6年前、土清水に水車で製造する藩の鉄砲火薬合薬所1本松より移ってきます。これも藩が寺津用水に力を入れた事とは無関係ではない様に思われます。

 

当時の土清水野は原野で、寺津用水の開削により、近村も含めて107haの耕地が生まれますが、藩はこの工事に150の支出と完成後の破損修理の費用を藩が賄ったそうです。因みの150は、2,500でこの金額は当時5,000に相当したという。因みに土清水の村御印は203石7斗5合(免3っ)と少なく免も30と周辺の他村と比べても低いことからも窺えます。

 

(寺津用水の取入口は、犀川ダムの3km下流の寺津逆調整池ダムで、明治28年(1895)金沢市が用水を利用して発電所を計画し、犀川系七ヶ用水の各用水普通水利組合管理者の猛反対に合います。翌年許可が下りますが、その後インフレのより実現が困難になり、当時、同じ事業に力を入れていた実業家森下八衛門(当時、和菓子の森八主人)に全ての権限をたくします。明治30年(1897)森下は金沢電気事業株式会社を設立。明治33年(1900)に辰巳発電所が完成し、以来、市内2000軒の家々の電灯の明かりを提供しますが、大正10年には金沢市が会社を買収し、電気局創設し、水利権も再び金沢市に帰属します、また、この寺津用水の水は現在も金沢の上水道の水源として使われ、市民の生活を潤しています。)

 

(明治38年の金沢市街図部分を加工・玉川近世史料館所蔵)

 白が金沢市、グリーンが石川郡・ブルーが河北郡

 

明治2年(1869)版籍奉還で金沢藩は金沢県にさらに明治5年(1872)金沢県が石川県になり、県庁は一時期石川郡美川町に移されていたが、再び県庁は金沢に戻ります。当時の県下の行政区分は明治322年まで数回変わります。

 

(氏神さんの上野八幡神社)

 

(当時の世情は、物情恟然(ぶつじょうきょうぜん)人々堵に安らぐが如く、旧藩士は第宅を毀ちて、市街に転住するもなあり、殊に大身の士は、邸地を售(う)り下邸を廃し、その跡大概耕田に変じ、平民もまた失職廃業し、去りて僻地に匿(かく)る者寡駆らず。従来最繁昌したる旧本町は固より論なく、旧七ヶ所及旧地子町に至るまで、多く家屋を毀ち、その跡往生にして畑地となれり・・・と武士も町人も惨憺たる状況が「稿本金沢市史」に書かれています。)

 

明治22年(18894月、石川県令23号町村制施行により、石川郡(218村)河北郡(19村)上野新村が所属する石川郡の旧石浦荘と河北郡の金浦郷が合併して崎浦村が誕生します。崎浦の村名は「この辺りは山崎山の麓にて、山崎は加賀国史上はなはだ縁故あり、またこの地方の一半は往古石浦庄と称せられ一半は金浦郷といえり、石浦のことも国史著名な地なり、故に歴史の故名を折衷して崎浦村と称す」と石川県石川郡誌に記載されています。

 

明治22年当時の崎浦村上野新町は、戸数37戸 人口220人 

 

 

(今の警察学校・この奥が旧牛首村(現錦町)

 

石川郡の石浦荘(涌波新村・栗林地方・三口新町・上野新村・山崎地方・笠舞村・大桑村)

河北郡の金浦郷(舘村24年湯涌谷村館村より編入)・土清水村・牛首村・牛坂村・田井村)

 

(上野新村の東端(現小立野1丁目)より卯辰山を望む)

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行


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