【小立野】
小立野の石浦郷山崎村は、藩政期以前、山崎山の原野で、山崎山或いは山崎領という遺名で呼ばれていたといいます。この地は、白山より連続する山のしっぽに辺り、山の先端(さきっぽ)から山崎山と云い、この山名から山崎村と云ったと云われています。藩政期初期は小立野より金沢城までが山林で、土地は平均化して武家地や組地、町地とし、石引町などの町名が立てられました。
(兼六園の山崎山)
(金澤古蹟志には、往昔は小立野の地は、石浦郷山崎村の地内に、小立野の惣名を山崎山と呼べり。然るに山崎山の地、悉く町地と成りたりし故に、迫々平均して家屋を建てたりといへども、今云う山崎山の地辺は、僅に往古の儘にて雑木生ひ茂り、実に深山の体をなしたるけるが、文政五年(1822)竹沢殿造営の時、今の如くその地域を狭められ、築山の如く成りて、僅に山崎山の遺蹟を残されたりといへり)
参考ブログ
東外惣構の起点!?兼六園山崎山の謎
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11721443583.html
(兼六園の山崎山の標識)
≪山崎庄≫
三州志来因概覧附録に云ふ。山崎庄は、小立野の出羽町辺、専ら此の庄内にて、今の与カ町は関わらずと云ふ。一説に、小立野は山崎庄にある野たり。国祖入城の初め、猶本丸より小立野の方を山崎庄と唱へしといへり。今、按するに、可観小説・混見摘写には、二ノ丸新五郎塚辺りをばいにしへ山崎郷と云うとし、、博伽雑談には、本丸より小立野の経王寺辺りまでをば山崎郷と云ふとあり。然れば郷とも庄とも呼びたりけん。(金沢古蹟志)
(兼六園の山崎山)
山崎村から上野町へ
金沢古蹟志によると、山崎村は往古小立野石引町辺り村落があり、家教も多き村でしたが、村地が追々町地になり、.経王寺の前へ転地するよう命しられ、その後、経王寺を建立したので、利常公の御母堂寿福院殿、毎度の参詣に道路が悪く、村を今の上野村の地へ移転し、村名も、新村では無いので上野村としますが、延宝六年(1678)に上野新村と改称されます。また、山崎領は、山崎村旧領地で、笠舞村へ合併し笠舞村より年貢が納められます。この地は昭和になり、金沢市に合併し田圃たけでしたが長谷川町と呼ばれていました。現在は金沢市笠舞2丁目になり田圃はなく民家が立ち並んでいます。
(現在の旧経王寺の参道)
(旧長谷川町・現笠舞2丁目)
小立野の名称由来
小立野というのは、俗に小立野台と称し、台上の惣号で、今は台上に石引町等の数町を建て、家屋が連なる一区で小立林を小立野といわれていいますが、小立野という名前には諸説あります。
「加府事跡必録」には、この原野幅狭く細長き地なりにより、小立野といえとぞ。惣じて小立野は幅狭く竪長き野なるにより「小竪野」と唱へし、後に小立野と謬書(びょうしょ)するなり。
「三州志」には、天徳院の塔司「小立庵」は、昔、小立野荒野なる頃より有りける庵号。
一向一揆の将「七里参河」この地に小館を建て、それゆえ「小館野」または「小龍野」という。
源平盛衰記に義仲、平岡野木立林に陣を取るとある。
(どれももっともらしいが、定かではない)
(現在の天徳院)
砂金台地「小立野」 地質学者の説によると、1万年以前(沖積世)まで、小立野台地は犀川と浅野川が蛇行 して流れていたという。 海の沈下に伴い台地が浸蝕され今日のように河岸段丘ができ川床が下がり小立野台地が 細長く残りました。犀川が河岸段丘をつくったとき、川の上流の「片麻岩」が含有する 金を多量に小立野台地の段丘に沈殿させたようだ。 そういうわけで、芋堀藤五郎伝説に有るように小立野台地には昔から砂金が取れたそうです。 一番多かったのは、今の兼六園から金沢城のところらしく、中世にはゴールドラッシュで金屋が集まり、金沢御坊(1546)の頃まで砂金採掘が続いたといわれています。 |
つづく
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行