この村は、藩政期以前石浦の郷内の七ヶ村の一村だと云う、現在の金沢城祉から石引4丁目辺りで、金澤事蹟必録によると、小立野山崎村は、延徳二年(1490)本願寺より小立野山の尾崎に道場を建て、尾山御堂と称し、道場の守護として本願寺より家老下間、坪坂等を下し、その旅館を小立野に建て住居させたという。それゆえ何時しか工商の家が集まり?そこが山崎山であったので山崎村と呼ばれるようになったと云われていますが、金澤古蹟志では、以下、それぞれの時代の記述を記載し、本当はどうなのかを解き明かしています。
山崎村は、金澤開府以後は、村地はことごとく武家・町家・寺院の屋敷となり、加賀古跡考の記載では山崎領と云う旧名だけが残ったと云う。ところが山崎の邑名(村名)は、白山比咩神社に伝来する三宮古記正和元年(1312)の條に、水引紳人云々。山崎・凹市紺一(現久保市さん辺りか?)。又、近年水引紳人沙汰進分事、山崎村紺一。等とあり、正和元年(1312)は延徳2年(1490)より180年ばかり前である事など、又、右古記には、山崎の村落は古い村ですが、尾山御堂建立で工商が集り、山崎の村が建てたということは、妄誕怠る事いちじるし(言うことに根拠のないでたらめ)。と書かれています。
さらに、土屋義休の金城隆盛私記には、山崎村は古くは1000石餘の所とあり、利長・利常二公のとき、府中繁栄。村里に町家が多く、山崎村の残り地小立野経王寺道路を山崎領という古説がありと、又、有澤武貞の金澤細見図譜に、山崎村は1000軒ばかりの家居がある大在所という記載があるのは誤りで、土屋義休の伝説の在所は今の十間町辺りだとしています。これもまた誤りか?
(白は、藩政期以前の山崎村・図は延宝金沢図の模写・兼六園のところの重臣の屋敷)
明治の郷土史家森田柿園の見解として、金澤古蹟志には、石浦神社に伝来する寛永八年(1631)の氏子地図に、山崎村跡は小立野石引町の裏なる出羽町の地辺とあり、三州志来因概覧附録では、この地を古山崎村といい、藩政初期には、横山山城・横山右近・奥村河内の屋敷を賜はり、山城邸は‘本多安房守邸と相向いとある。よって山崎の村落は、現在の二に丸新五郎塚跡から兼六園の地より今(明治)練兵所(今の石引4丁目)となる出羽町の旧地が山崎の村跡だと書かれています。
(明治の練兵場跡)
(この辺りが新五郎塚跡)
(二の丸新五郎塚跡は、藩侯の寝所の居間先、松坂門上に辺り、尾山御坊の頃、この辺りが坪坂伯耆守の子の城代坪坂新五郎(天文日記)の墳墓とされた。利家公入城時にこの塚から人骨が出土し、これは世俗では本願寺第8代蓮如上人の骨とし、四十万の善性寺の近くの山に葬りました。明治14年に二の丸御殿が焼失した時、残る人骨がでたので、蓮如上人の父、第7代存如上人の遺骨として西町の神護寺跡に廟所を建て安置した。)
(存如上人の御廟所)
(旧山崎町の町名改称の碑)
≪小立野の旧山崎町≫
金沢市内の町名が変更された昭和39年(1964)まで、小立野に有った旧山崎町は、山崎村とは無関係で、藩政期、山崎氏(5,500石)の屋敷地があり、明治2年(1869)に山崎町の名で町立されました。その町は山崎氏邸が有ったところで波着寺の隣地、始めは山崎氏の下邸で、途中から山崎氏がこの地内に居住を移します。延宝の金沢図には、山崎庄兵衛と記載があり、前口七十間、東側四十七問一尺、西側八十三間五尺二寸で、地内には家士も居位し山崎家中とよばれていました。
(安政の絵図・山崎氏屋敷)
山崎氏略伝
山崎氏の出自は、「越前国に官吏として赴任した藤原氏の末裔」や山崎家が伝承する「村上源氏赤松氏流の末裔」など諸説あります。山崎閑斎長徳は、天文21年(1552)誕生と伝えられ、元山城国山崎の油売で、家紋も油筒の形を用いています。当初は朝倉義景の家臣として仕え、義景の宿老だった山崎吉家の縁戚に当たるといわれ、父は吉家の弟山崎吉延ともいわれていますが、詳しいことはわかりません。朝倉氏が織田信長によって滅ぼされると明智光秀に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変や山崎の戦いにも参加します。
光秀が山崎の戦いで敗れると、越前国の柴田勝家に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは勝家の家臣佐久間安政の許で戦い、勝家が死去すると前田利家公に次いで前田利長公に仕えます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは加賀国大聖寺城の山口宗永、山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げ、戦後に利長公から1万4000石とも1万5000石とも云われる所領を与えられます。慶長16年(1611)に剃髪して閑斎と号し、慶長19年(1614)からの大坂の陣にも、冬・夏の両陣に参戦します。
長男庄兵衛は、父に先立ち、二男阿波へ1万5000石を譲るが、これまた先立ち没します。故に三男長門長鏡の名称を譲る。これが山崎氏の祖となります。末子を美濃と云い、関斎卒後隠居料2,000石を譲り大聖寺藩士山崎氏の祖也とあり、山崎閑斎は行年67歳で元和7年(1621)に病死したとあります。
その子孫は、文政期には金沢町奉行として、或るいは、「禁門の変」で慶寧公の筆頭家老として加賀藩史に登場するなど幕末まで続きました。
(今の旧山崎町)
P.S.
前田利家公に、15,000石で仕えた山崎閑斎を見抜いていたらしく、2代利長公に「性根は善いが、使用上注意せよ」と言い残していました。さらに「山崎はかたくなな武辺者ゆえ、 侍(さむらい)30人か40人の頭にはよいが、大軍の将とすることは 無用」とも言っていたという。のちに前田家が徳川方に加わった大坂夏の陣のとき、豊臣方の真田幸村の突撃で徳川方が混乱する一場面に小躍りした山崎閑斎は3代利常公に「今こそ徳川を討って天下を取られよ」と寝返りを勧めたという逸話があり、大局を見ないイノシシ武者に大軍を預けて暴走されたら堪らないということですネ。
(今の二の丸)
太田但馬守誅殺事件では、前田利長公により横山長知と山崎閑斎の2人に太田殺害を命じますが、山崎は約束の時間に遅参したため、横山は、助太刀として連れて行った御馬廻組の勝尾半左衛門とともに太田を成敗します。後日談では、横山と共に利長公の命を受け、遅参した山崎閑斎には、この事件の後、それまで兄弟のように仲の良かった横山との仲が悪くなったらしい、それは連座した女中の中に山崎の縁者がいたせいであろうか?等々
参考ブログ
本多家上屋敷は太田長知の屋敷跡
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12314086241.html
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行ほか