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山代温泉①ほっと石川観光ボランティアガイド加賀地区大会

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【加賀温泉郷・山代】

平成14年(2002)に発足した「ほっと石川観光ボランティアガイド連絡協議会」に加盟する石川県内の各地区では、年3回持ち回りで開催される研修会が316日今年度最後の研修が加賀地区山代温泉で開催され、16ヶ月ぶりに私も参加させて戴きましました。

 

(ほっと石川加賀地区大会1)

 

(ほっと石川加賀地区大会2)

 

今回の研修コースは、山代温泉を中心に加賀市内の幾つかのコースが用意されていて、私たちの金沢の「まいどさんグループ」は、「魯山人寓居跡」と魯山人所縁のところをめぐるコースで、半日の研修でしたが、内容が盛りたくさんで聞くだけで精一杯でした。以下、今回、山代温泉の行かないところも含めて調べた事を何回に分けまとめてみます。

 

 

(いろは草庵)

 

山代温泉の開湯は、1300年前の神亀2年(725)と言われています。温泉縁起には、霊峰白山へ行基上人が白山登拝の途中、霊鳥が水たまりで翼の傷を癒しているのを見つけ、温泉を発見したという逸話が残されています。霊方山薬師院温泉寺は、温泉守護のため創建されたと伝えられ、薬師日光月光十二神将を祀り、白山権現を勧請して鎮守としたことがこのお寺の始まり、白山五院の一。末社、別院数百坊を有したといいます。

 

 

(薬師院温泉寺)

 

後に明覚上人を従えて花山法皇が北国巡歴の際に山代温泉に立ち寄り、湯の優れた効能を見抜き温泉寺を中興し七堂伽藍を建立したと伝えられています。戦国時代には兵火により焼失しますが、大聖寺藩主前田利治により再建されました。境内背後には「めかくしさん」とよばれる室町時代に造られという明覚上人を供養する「石造五輪の塔」は国の重要文化財に指定されています。

 

(明覚上人(みょうがくしょうにん)天喜4年(1056)~ 没年不詳)は、平安時代後期の天台宗の僧。読み方についてはめいかくとも読むそうです。温泉房または唯心房(存疑)と号し、比叡山に入って覚厳に師事して天台教学を学びました。比叡山に五大院を開創した安然(841?915?)を慕って悉曇学(しったんがく)を修学し、加賀国薬師院温泉寺に移り住みました。)

 

 

(薬師院温泉寺の所縁)

 

「あ、い、う、え、お、か…」誰もが知っている日本語の五十音順ですが、もともとの並び順は「いろはにほへと…」ですが、「あいうえおか…」の現代の日本語に進化させたと言われている方が明覚上人です。明覚上人は、独学で悉曇学(しったんがく)・サンスクリット文字を学び、それをもとに今の五十音順を創り上げたと言われ、今、街には周辺が散策できる「あいうえおの小径」が整備されています。

 

毎月10日薬王院温泉寺では、この明覚上人の偉業を称えるために「明覚上人顕彰会」が寺にある「五輪の塔」にて行なわれています。そして810日は明覚上人の本命日にあたり、ご供養も執り行なわれます。また、学業成就にご利益があるパワースポットとも言われています。

 

 

(山代温泉の昔ながらのベンガラの宿)

 

山代温泉の泉質は、同じ地にナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉など微妙に違う3つの泉質があり、鎮静効果が大きく病後回復、疲労回復、ストレス解消、健康増進などに効能があると言われています。特に「脳卒中のリハビリ」などに利用され「脳卒中の湯」「神経痛の湯」と言われていて、昔から多くの人々が湯治に訪れ、傷を負った明智光秀や加賀藩初代藩主前田利家公など、時の権力者たちも湯治に訪れたそうです。

 

藩政期より戦前までは温泉宿が18ほどの山代温泉は、北前船の船乗りや近郷近在から湯治客を集め、共同浴場“総湯”を中心に町がつくられ、共同浴場の周りに温泉宿が立ち並ぶ街を「湯の曲輪(ゆのがわ)と呼ばれ、湯治客が街を行き来し、長逗留の湯治客は自然に包まれた付近を散策したといいます。大正中期に、日本初の旅行温泉ライターが書いた「温泉巡礼記」に“山代の湯女”が紹介されたことで、全国的に有名になったといいます。

 

 

(古総湯)

(今の総湯の門・旧吉野屋の門)

 

現在では、温泉宿の内湯はあたり前ですが、街には2つの共同浴場の“総湯”“古総湯”があり、“総湯”は、広くて新しい熱交換システムを導入。加水なしの100%源泉の共同浴場です。もうひとつの“古総湯”は、明治時代の総湯を復元し、外観や内装だけでなく「湯あみ」という温泉に浸かって楽しむだけの当時の入浴方法も再現した共同浴場になっています。

 

 

 

山代は、藩政末期に古九谷を再興した吉田屋窯が生まれた土地で、近くには「九谷焼窯跡展示館」や少し離れた大聖寺には「石川県九谷焼美術館」 そして、今も登り窯のある有名な菁華窯が有り、湯治場としてだけでなく、古今、多くの文人墨客にも愛されています。また、大正時代に逗留し、旅館の看板を製作したという美食家であり芸術家としても知られる北大路魯山人が、作陶や絵画を学んだのも山代であるといわれ、現在、その当時の寓居跡は「いろは草庵」という名前で観光名所となっています。

 

(つづく)

 

参考:聞いた話や加賀市で頂いたパンフレット、ウィキペティアフリー百科事典など


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