大正4年(1915)10月、細野燕台の食客として金沢に滞在していた福田大観(後の魯山人)が燕台に伴われ山代の吉野屋で、主人の吉野冶郎に会います。治郎は書画骨董の数寄者で世話好きの当時55歳。その吉野家には、燕台の書いた看板がすでに掛けられていたが、治郎に自分の看板より、この男の書く看板に改めないかと、熱心に勧めたといいます。
(魯山人寓居いろは草庵)
(細野燕台と福田大観(魯山人)との出会いは、大正4年(1915)7月福井の鯖江で旅館と美術ブローカーで茶友窪田ト了の処で紹介され、8月に初対面の時とまったく同じ白絣の木綿の着物に羊羹色(黄土色)の呂羽織、履き古した草履を素足に履いて、手垢で薄よごれたカンカン帽をかぶり、風呂敷包に身の廻りの品をくるんで、金沢の殿町の骨董屋兼セメント屋の燕台の店に現われ、この日から細野家の食客として納まり、燕台は家族ぐるみで温かく向入れています。燕台は早速、知人の間を廻り福田大観(魯山人)に印章を刻らせて貰うよう頼んで歩きますが、印章では誰も注文してくれず、やむなく看板の注文をとつて彼に仕事を与えます。まずは燕台自ら考えた骨董店の「堂々堂」の看板を彫らせてみます。3日後には、まさに堂々した堂の出来映えだったといいます。)
細野燕台は、明治5年(1872)7月2日に金沢生まれ。金沢で家業の油屋を継ぐ。古美術に精通し,のちに骨董(こっとう)業とセメント業を営み、茶や書でも一家をなした。無名時代の北大路魯山人に味覚と陶芸について教えた。伊東深水のえがいた肖像画「酔燕台翁」がある。昭和36年9月24日死去。89歳。本名は申三。 |
吉野治郎は、大観の書を見てその才能を見抜いたのか、不遜な顔つきではあるが、気骨のありそうな面構えに期待して、また、燕台への義理立てもあったのか、その仕事が打ち込める場所にと自邸を開放します。服部神社の石段を真直ぐ降りてきたところに治郎自身の隠居所があり、明治の初めに文人数寄者たちの雅遊のサロンとして建てたもので、ここを仕事場として大観に提供します。現在の魯山人寓居跡いろは草庵です。
(服部神社:機織の神の天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)を祀るとされています。延長5年( 927)の書物によるとその時代には大変立派だった社殿も、天文21年(1552)越前の朝倉義景の戦火にあって社殿を消失しました。 江戸末期には廃絶されていましたが、明治8年、現在の場所に服部神社を再興され、菊理媛神(くくりひめのかみ)をまつる白山神社と合併して郷社となりました。)
(服部神社)
山代での初仕事が吉野屋の看板を彫琢することで、吉野屋の看板は前に書きましたが、細野燕台が書いたものを使っていましたが、燕台は、「ちょうどええ機会やから吉野屋はんも、いつまでもわしの看板を使わんで、これに彫ってもらったらええ」と勧めたといいます。普通なら、その能力がいかに優れていたとしても簡単に出来るものではなく、燕台が若い大観(魯山人)に惚れていたか?がよくわかります。
大観(魯山人)は仕事場に提供してくれた一室に畳表を敷き、砥石で鉋を研ぎ終えると燕台の看板の字を削り落とします。彫られた「吉野屋」は力強い陽刻彫り横書きで、一見、粗野に見えるごつごつとした彫りに大観の力量を感じた吉野治郎は、この看板が気に入り、即、玄関に掛けます。
(いろは草庵の室内)
燕台の宣伝で大観(魯山人)の仕事を見に駆けつけた山代の館主「あらや」「くらや」「白銀屋」「田中家の洗心館」、「山下家」そして「菁華窯」の須田与三郎などから注文をもらい、これらの看板を彫ることになります。そして大観は翌年の春までの7ヶ月を吉野屋の隠居所に逗留し、それらの看板を掘る仕事に没頭したのは、11月から12月で、のちのち語りつがれる多くの代表作が彫られています。
(今、山代に残っている看板)
大観(魯山人)の刀技は燕台が抱いていた以上の力量を発揮し、その彫りは臨機応変、自由奔放で、思っていた以上の才能が現れていました。用材の大半は欅、楠、桂、杉、栗などを用い、彫琢したところに緑青、胡粉で仕上がられます。
細野燕台は山代温泉に滞在する時、決まって銀製の小鍋を持ってきました。当時、温泉場の旅館には板場はなく、仕出し屋から客の好みにあわせて料理を運んでいました。しかし、せっかくの汁ものも冷めてしまうので、燕台は部屋の火鉢で暖め直すために持って来たもので、北陸の山代で大観(魯山人)が、後の美食倶楽部から星岡茶寮につながる美味に開眼したのではと言われています。特に生れて初めて「クチコ」や「このわた」を燕台からご馳走になった大観(魯山人)は、その美味さに驚いたと伝えられています。
(書展のチラシ)
P.S.
今回訪問した魯山人寓居いろは草庵では、「書の愉しみ」と題し、魯山人とゆかりの方々、魯山人の新たな才能を見出したといわれる金沢の細野燕台、料理の才に目覚めさえた金沢「山の尾」の太田多吉の書も展示さていて、それらの書にも、それぞれの信念や哲学が込められているように思えたのは演出や設えとばかりとは言えない何かを感じました。
(つづく)
参考:北室正枝著「雅遊人」―細野燕台の生涯―・当日魯山人寓居跡いろは草庵での解説など