【加賀温泉・山代】
思いがけず、山代のボランティアガイドの皆さんのご配慮と老舗旅館「たちばな四季亭」のご理解により、当旅館のお宝を見学させて戴きました。この場を借りてお礼を申し上げます。有難うございました。「たちばな四季亭」の前身は明治元年(1868)創業で田中屋旅館といいました。平成2年(1990)に全館を新築し、館名を「たちばな四季亭」と改め、リニューアルオープンしたと聞きます。
(たちばな四季亭)
それ以来、山代に残る明覚上人の「あいうえお・・・」伝説から、経営の“こころ”を「ひらがなのおもてなし」とし、ひらがなから受ける柔らかさと優しさをおもてなしの心に反映させ、お客様が常に温もりを感じられるお宿を目指しているそうです。
(旧名田中屋の看板)
(玄関には、芭蕉の句”両の手に桃と桜や草の餅”)
(3月の玄関の設え)
ご案内して戴いた、女将さんのお話では、前身の田中屋旅館時代の大正5年(1915)には、当時の館主(和田重太郎)と福田大観(後に北大路魯山人)が親交を深め、当時の特別棟のため「洗心館」の看板を制作して戴き、魯山人の心はそのままに、特別宴会場“洗心”の名に残し受け継いでいるそうです。また、館内には、魯山人作の「洗心館」の看板や和田重太郎の作品、高価な骨董や扁額、陶磁器のコーナーが設けられていました。
(魯山人の看板)
どうも、その和田重太郎さんは、温泉旅館の館主でありながら、画家でもあり、福田大観(魯山人)が山代に滞在する間、大観(魯山人)に絵を教えていたらしく、その功績が数年前、地元の北國新聞に取り上げられていたそうです。さっそく調べてみるとの曾孫のブログに曾祖父和田重太郎氏の記事を見つけました。
(和田重太郎の画①)
(和田重太郎の画②)
(茶房好山庵の作品群)
曾孫和田哲行氏のブログによると、大観(魯山人)とは結構仲がよくて、絵画を教えたお礼に看板を彫ったことが書かれていて、ウチには魯山人の作品が何点か残っているとも書かれています。
(数年前の北国新聞の記事)
僕(曾孫)の中では曽祖父は絵画の天才でしたが、あまり日の目が当たることなく、秘密兵器のような方だと思っていました。「このまま秘密兵器のまま終わるのでは?」と僕(曾孫)を含めて和田家全員がそう思っていましたが、「やっと日の目を見るようになりました」と、今でもお寺に行くと曽祖父の書いた絵が飾られていて住職がお礼を言ってくれます。曽祖父の功績が評価されたと今度お墓の前で報告しようと思います。(曾孫和田哲行氏のブログ引用) 「曾祖父の功績」 |
そこで、さらに知らべると、その和田重太郎は、明治6年(1873)に山代の田中屋旅館の長男に生まれ、号好山。納富介次郎によって創設された石川県立工業学校の専門画学部本科に入学。鈴木華邨(日本画)や村上九郎作(木彫)から学び、明治27年(1894)に卒業。以後、校長だった納富介次郎の信頼を得て、介次郎が創設した富山県立工芸学校では図案絵画科の教員を、香川県立工芸学校では、納富介治郎から校長心得を受け継ぎます。
明治34年(1901)には父の死で、山代に帰り田中屋旅館を受け継ぎます。生来温厚篤実な人柄で、長らく内紛の続く鉱泉宿営業組合を仲裁し、若くして組合長に推挙され、采配をふるったとあります。また、晩年まで画道の修行を続け、題材は幅広く、請けおわれて画塾を開いた。買い求めた納富介堂(介次郎)、鈴木華邨の作品と好山の軸、屏風、陶芸作品を「茶房好山庵」に展示し、その業績を伝えている。昭和26年(1951)1月12日、78歳で逝去とありました。
(江戸時代の著名な文人が書いたという「竹里館」の偏額、魯山人が譲ってほしくて何回も手紙が送られてきたと聞く)
(納富介次郎、明治-大正時代の陶芸家、教育者。天保15年1844)4月3日生まれ。肥前小城藩藩士柴田花守の次男。父に書画、詩歌を学ぶ。安政6年(1859)佐賀藩士納富六郎左衛門の養子となり万延元年(1860長崎に出て南画を、文久2年(1862)上海に渡って貿易調査を行い、明治6年(1873) ウィーン万国博覧会で政府随員として渡欧し、ヨーロッパ各地の製陶所を見学して帰国、勧業寮で新技術を教える。のち石川、富山、香川、佐賀などの県立工業(工芸)学校長を努めた。大正7年(1918)3月9日死去。75歳。号は介堂。)
(つづく)
参考:石川県立工業高等学校創立120周年記念美術工芸所蔵作品図録など