【加賀温泉郷・山代→東京・鎌倉】
魯山人が言った有名な「器は料理の着物」という言葉が有ります。魯山人の作陶の多くは料理を盛る器で、自らつくる料理のために器づくりを始めたのは自然の成り行きでしょうが、魯山人が「器は料理の着物」に思いを致したのは、細野燕台や太田多吉を知り、作陶を初代須田菁華に習い閃いたのでしょう。魯山人は、衣裳が婦人の生命であるなら、食器は料理の生命です。盛り付けたとき、その素材に合い、美しさを感じる食器を目指し、料理の素材を生かすような食器づくりに励みます。その器は、新鮮な材料が、そのまま調理されたもの程、盛り付けたときに最高の美を発揮するといい、逆に、調理過剰、装飾過多の料理は、それを拒否してしまうと・・・・。まさに大正4年(1915)食材の豊富な北陸の金沢や山代で、素晴しい好事家や名人と呼ばれる作陶家を知り触発されたことによるもだと思われます。
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(須田菁華窯1)
(ピカソは「凡人は模倣し、天才は盗む」と言い、スティーブ・ジョブズは「優れた芸術家はまねをし、偉大な芸術家は盗む」と言ったといわれていますが、魯山人は優れた芸術家から息を吹き込まれ、さらに偉大な芸術家になったということのようです!?)
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(菁華窯②)
金沢の食通で知られた細野燕台の食客となり細野家の食卓で気づきます。子どもの頃から養家や奉公先で料理を経験しますが、家庭の温かみというものに縁がなかった魯山人は、大勢の家族とともに囲む食卓や器というものが、いかに食材を引き立たせるかをしみじみと実感し、「まるで器から出汁がでているようだ」と言っています。
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(金沢の山の尾)
また、金沢滞在中に東山の「山の尾」の太田多吉を知ります。多吉は自ら九谷焼職人の須田菁華のもとに出向き、自らの料亭「山の尾」で使用する食器を作る姿とこだわりを目の当たりにし、食と器の調和の大切さを知り、毎日のように「山の尾」に通い加賀料理を教わって食への興味を深める一方、吉野治郎が提供した別邸を拠点に篆刻や書の制作に励むようになります。
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(菁華窯の看板)
大正4年(1915)11月「菁華」の刻字看板完成し、その見事な出来映えに菁華窯の仕事場に入ることが許され、初めて絵付けを体験します。書家の魯山人も最初は、素焼きの上では筆が思うように滑らず困惑したといいます。それ以来、看板を彫るかたわら、ひまを見ては菁華の工房に出向き、釉薬の調合や窯の焚き方といった作陶の基礎を学びます。以後、魯山人は初代須田菁華に手ほどきを受け、陶芸の技術や審美眼を磨いていきます。
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(星岡茶寮給仕募集チラシ・いろは草庵より)
魯山人は、大正8年(1918)36歳の時、幼友達の中村竹四郎と東京に骨董店「大雅堂芸術店」を開店し、大正9年(1919)骨董店の二階に会員制の食堂「美食倶楽部」を開店。店の陶磁器に手づくりの料理を盛りつけた演出が、好評を得ます。翌年から福田大観を実家の姓である北大路を正式に名のり、北大路魯山人となり、大正14年(1924)赤坂に開店する会員制の高級料亭「星岡茶寮」で、北陸時代に磨いた才能を開花させます。
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(星岡茶寮の女中頭募集チラシ・いろは草庵より)
魯山人は星岡茶寮の顧問兼料理長として腕をふるい、料理と器の調和にきめ細やかな配慮をみせ、盛り付けに使う器を石川の須田菁華窯に出向いて作ります。星岡茶寮は「東京における最高の料亭」と呼ばれるまでに発展します。
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(不遜の面構えの魯山人)
大正15年(1934)に鎌倉山崎に7000坪の土地を借り、登り窯を築き、燕台は、再度作陶の職人集めを魯山人から依頼され、宮永東山窯から工場長の荒川豊蔵、金沢の初代中村梅山窯から松島小太郎、須田菁華窯の山本仙太郎を燕台が説得して歩いて引き抜き、困り果てた東山窯、梅山窯、菁華窯からは、燕台はかなり恨みを買ったといわれています。
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(須田菁華窯の登り窯)
以後、魯山人には傲岸・不遜・狷介・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家ピカソまでをも容赦なく罵倒し、この傲慢な態度と物言いが祟り、昭和11年(1936)には、星岡茶寮の経営者中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年(1945)の空襲により焼失した。
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(山代の菁華窯)
魯山人は晩年まで、かつて暮らした金沢や山代の吉野別邸のことを気にかけていたそうです。
参考ブログ
魯山人と初代須田菁華‐加賀市総合サービス
参考文献:北室正枝著「雅遊人」―細野燕台の生涯―ほか