【ひがし茶屋街】
燕台さんには、東の廓(ひがし茶屋街)に2人の囲い者(お手掛けさん)が居たと聞く・・・。囲い者と言っても、妻曾登に隠れて、こっそり別宅などに住まわせていたわけではなく、妻も公認!?当時、燕台さんには年端もいかない娘がいて、その娘玉映を連れて別宅に行ったこともあり、娘は曾登に、綺麗なお姉さんに可愛がってもらった話をして、曾登も苦笑いしたという話が今も語り継がれています。
(現在のひがし茶屋街・元東の廓)
大正の初め頃は、芸妓遊びは男の甲斐性という時代のせいもあり、妻の曾登は、今となっては内心は分からないものの、アッケラカンとした性分も手伝い、表向きは取り立てて気にする風もなく、お手掛けさんの1人“広さん”は、燕台さんの妹と気が会い電話で長話をしたり訪れたりしたらしく、家族ぐるみで認める付き合いだったとか、当時は、金沢のお金持ちの旦那さんにとっては「男性天国」だったようです。
そのお手掛けさんの1人“広さん”は、維新後、家が没落した士族の娘で、幅広い教養と気配りも良く優しい女性で、芸妓(げいこ)の頃から燕台さんの文人の話が通じる“広さん”が最もお気に入りだったようです。出会いは、25歳の燕台さんが、東の廓(ひがし茶屋街)の茶屋で一目ぼれした女性で、当時15歳、色白で小柄、口数が少なく面長の金沢美人だったといいます。
(燕台さんは、背は当時とし高いほうでしたが、取り立ててイイ男とは言い難く、酒屋の坊ちゃんではあるが大事業家でもなく、どこでどうなっていたのかよく分からりませんが、お金が回りいつも羽振りがよかったらしい、それに話がうまく、人への気配りが魅力で芸妓衆に受けが良かったようです。)
(現在のひがし茶屋街)
以来、燕台さんは、足繁く東の廓(ひがし茶屋街)の“広さん”のところへ通い詰めていました。ところが、“広さん”の年期が明け、20歳の時に野沢という表具師の元へ嫁にいってしまいます。
(旧彦三1番丁)
すっかり気を落とした燕台さんは、今度は、東の廓(ひがし茶屋街)の“照さん“を引き、愛宕町で待合「照乃」を持たせてやったそうです。”照さん”は“広さん”ほど美人ではないが、歳は燕台さんと似たり寄ったりで、彦三1番丁の釜師宮崎寒雉の隣の別邸に住まわせていました。
(現在のひがし茶屋街)
“照さん”は、芸事は不得手だったそうですが、大酒飲みで、お客を相手は口八丁で座持ちが良く、お座敷では、ザックバランで人気もあり重宝がられていたようで、客の中には、芸が不得手なことを知りながら「おい、照。三味線を弾けマ。」というと、“照さん”は、さすが、一瞬、むかついた顔をするが、直ぐに笑顔つくり「ほんなら引かせてもろサケ、見まっしマ。」と返し、さっと立ち、帯止めを解くと、その帯を三味線の糸巻きに縛りつけ、三味線を畳の上で引きずり歩いくと、大爆笑と拍手の嵐、座が大いに盛り上がったそうです。そのように気性が激しくお転婆で大柄な女ですから”アラビア馬“とあだ名が付いたそうです。燕台さんもそんなさばさばとしたキカン気がお気に入りだったらしい・・・。
(旧観音町)
ところが3年ほどすると、“広さん”は未亡人になり、男の子を連れて野沢の家から戻ってきました。それで燕台さんは、早速、“広さん“にも待合「野沢屋」と観音町に家を持たせたそうです。
当時の東の廓(ひがし茶屋街)では、元旦には花初めの座敷があり、芸妓達は、正月向けの日本髪を結い上げ、黒留袖を着て、茶屋の女将のところに年始にいってから、料理屋から馴染みの客のところをまわり、廓では、松の内は花代を取らず遊ばせてくれたそうです。旦那衆は芸妓達に1円の入った「お年玉」を配るのが習わしで、三味線や踊りは普段より華やかになり、賑やかに歌や舞っているところに加賀万歳がやって来て、街の通りはいつもより忙しく人力車が行き交ったと、北室正枝著「雅遊人」に書かれています。
(旧殿町十番地の細野燕台の店跡)
(細野燕台(ほそのえんだい):明治5年(1872)7月2日金沢市材木町生まれ。金沢で家業の油屋と酒屋を継ぎ、後に旧殿町十番地でセメント販売を業とし支那骨董店を併設した。若い頃、漢学を金沢の五香屋休哉に学び、書家の北方心泉に書道を学び、茶道や書画骨董にも通じ、茶道家、書家として一家をなす。無名時代の北大路魯山人(ろさんじん)に味覚と陶芸について示唆を与え、後に魯山人の誘いで鎌倉にて活躍した。伊東深水のえがいた肖像画「酔燕台翁」がある。昭和36年(1961)9月24日死去。89歳。本名は申三。)
参考文献:北室正枝著「雅遊人―細野燕台・魯山人を世に出した文人の生涯―」ほか