【ひがし茶屋街】
大観(魯山人)は、大正5年(1916)正月。山代での看板の仕事を終え、多少懐具合もよくなり、金沢に帰り十間町の燕台さんの店の近く上博労町の下宿で仮住まいをします。実は、金沢で遣り残した事があり、金沢や山代に滞在中、名前だけは知っていた山の尾の太田多吉に会う事でした。山の尾の太田多吉と燕台さんは昵懇の間柄でしたが、なかなか紹介して頂けず、大観(魯山人)は一計をめぐらせます。
(旧殿町の燕台さんの店の跡)
太田多吉は、茶の湯に精通し、偏屈者で、癇癪持ち。燕台さんは、大観(魯山人)の人を食ったような言動は恐らく多吉の機嫌を損ねかねないと最初からから危惧していたものと思われます。昨年、大観の来沢に際し、燕台さんは大観に印判の仕事をと思い、富山に住む金山従革という篆刻の大家のもとを訪ねたとき、「昨今の篆刻はみんな中国の真似だが、自分は日本独自の篆刻を完成させたい」と大風呂敷を広げ、古今の篆刻文書をことごとく「読んでいない」と言ったために失笑を買った会見で失敗したのに懲りていたもの思われます。
(今の山乃尾玄関)
北室正枝著「雅遊人・細野燕台」によると、大観は燕台さんのお手掛けさんの一人“照さん“を訪れ、燕台さんに言っていますが、山の尾の太田多吉さんに合わせて貰えませんと口説き、照さんからも燕台さんに言っては貰えませんかと頼みます。どうも、もう一人の”広さん”に頼るより、照さんの方がさばさばしていて気安かったと言うことらしく、“照さん”は「そんなことやったら、“お安いご用”」と言い「山の尾の“だんさん”のいい人の初枝さんも知とるさかい、そっからも云うてもろてあげるワ」と言われ大観の作戦は成功します。
(今の山乃尾・ひがし茶屋街より)
山の尾に行くと、燕台さんは、茶を知らない大観の所作に、太田多吉が何時、機嫌が悪くなるかとハラハラしていましたが、結果は、食で繋がり良いほうに転がっていきました。出された「ばい貝」です。大観は、秋の食った物とは格段に味が違うこと気づき、多吉は「あんたいい舌をもっておりなさる!!」「舌の感覚は生まれつきもんやサケ、たんと(沢山)食べマッシ」と言い「ばい貝は縁起のいい食べモンや、倍々に膨れて、目出度い事が重なるということや。まだ正月やサケ、目出度い、目出度い」と大観の味覚をほめ、すっかりご機嫌がよくなったという。
(今の山乃尾のアプローチ)
調理場では「これはどのように調理してはりまっか」と大観は細かく聞いてきたといいます。多吉は大観が料理にも興味があるのではと思い「君は料理にも興味があるのかね?」 「ええ、初めて口にする複雑な味なので」と言うと太田多吉が丁寧に説明してくれ、大観は味を確かめるように箸を運び、燕台さんは、素知らぬふりで酒をのみ続けながら、内心、和やかな2人に目を細め安堵していたといいます。
(ひがしの菅原神社前の誘導看板)
(太田多吉は、金沢の山の尾の主人で、「山の翁」と号し、茶懐石や書画骨董に詳わしく、また所持していたので、古美術界では有名で、当時、茶人として名高い男爵で三井財閥の益田鈍翁をはじめ、東京、京都、大阪などから茶人、数奇者、美食家が「山の尾」にたえまなく訪れていたそうです。なかでも燕台は多吉との骨董趣味が通じ、多吉は食通の燕台に一目置いていたようで、親しく交流しています。山の尾の料理は、京都とは一味違う多吉流の調理方法で、スッポンなどの絶品の味や、加賀料理やクチコ、コノコなど、多吉自らは鰻を捌く鰻料理は見事で、河北瀉でとれる天然の大きな鰻を開いて、一日中、裏庭の滝に打たせて清水でさらして脂をぬき、これを蒸さずに白焼にして、山椒と胡椒の粉を焼塩と混ぜたものを掛けて食べさせるのを自慢だっと言われています。)
(今の山乃尾の看板)
多吉は、傲岸不遜な魯山人をやわらかく懐に入れ、加賀料理や懐石料理を教えます。ここでの経験が、後の美食家としての魯山人の料理の基礎になります。いくら食と器のスパーマン魯山人であっても、その能力を引き出してくれる人がいなければ、名を残すことは出来ないことが分かります。
(山乃尾前からの眺望・手前はひがし茶屋街)
また、太田多吉には本妻のほか、二人の妾がいましたが、子供には縁がなく、多吉にとっては薄幸に育ち、漂泊の大観を子供のように思え、見ることも聞くことすべてに興味を持つ大観を可愛がり、その後も大観が訪ねてくる度に調理場への出入りを自由にさせます。
(宝円寺と太田多吉の墓)
(宝円寺の細野燕台の墓)
昭和7年(1932)9月28日。山の尾の太田多吉翁の金沢での葬儀に北大路魯山人が参列し弔辞を述べます。以下要約する“近頃の茶人は、少しばかり茶の作法、お手前や形式を覚えると直ぐにそれを商売とする然らずんば鬼も首を捕らえたように鼻うごめかして身の粉飾をする。そうゆう振る舞いが、すでに茶人の資格を欠くものであるが、今の茶人の多くは大根が浅薄(あさはか)な了見から出来ているから大概は、苦々し手合いが多い。その点は、今度逝った金沢の太田多吉翁(山の尾)のごときは実に立派なもので「茶を身の飾りとせず、商売とせず、実に自己を安んじる宗教としていた。」と述べられたそうです。
(今の山乃尾のアプローチ)
しかし、魯山人自身は、よく知られている話ですが、嫌らしい行為も多く、美しさや快感の追求や良い物を見るために所持者の金持ちや美術商に取り入り、美味くて美しい料理を食し、また、提供するために使用人を足蹴にし、情欲を満たすために女を手篭めにするなど、太田多吉翁のような立派は師に出会いながら、人として、決して誉められることのない生き方をしたのです~が?作品と人格は別なんでしょうネ!!
(今の山乃尾)
(後日談ですが、太田多吉には後継者はなく「山の尾」の什器備品を売り払い、門や玄関は、燕台さんの紹介で深谷の旅館「三竹屋」に移され、昭和6年(1931)には土地屋敷を尾張町の薬問屋の石黒伝六に売って手放し、 翌昭和7年(1932)に多吉は八十才で亡くなります。山の尾の門や玄関を移築した三竹屋は大正11年(1922)、西町に創業した数寄屋亭旅館に、その後、十間町に移り湯葉懐石を主に文人墨客に愛され燕台さんも贔屓にしていた料亭で、平成元年(1989)には金沢都市美文化賞を受賞したが、平成六年に廃業しました。昭和23年(1948)、石黒伝六の土地を買った本谷氏が、太田多吉の「山の尾」にあやかって、「山乃尾」として営業しています。)
参考文献:北室正枝著「雅遊人―細野燕台・魯山人を世に出した文人の生涯―」ほか