【下石引町】
安政期の絵図を見ると、小立野の石引大通りの左側、今の聖ヨハネ教会前の小路から兼六園までを下石引町と描かれています。明治3年(1870)の地図では、石引大通り左側の奥村家下屋敷と右側の兼六園寄りの奥村家上屋敷が下石引町になり、昭和38年(1963)の町名変更までそのまま続きます。その町名変更では下石引町や飛梅町(藩政期は前田長種家の下屋敷)等も含めて「石引4丁目」となります。
(平成12年(2000)の町名復活では、石引4丁目のうち、石引大通りの右側国立医療センターだけが下石引町に、北陸学院と紫錦台中学校などの旧飛梅町が、新たに飛梅町として復活します。)
(今の国立医療センター・下石引町1番1号)
(今の国立医療センター・兼六園側より)
奥村家上屋敷(約5,500坪)は、藩政期の延宝金沢図(作図は延宝年間(1673~81)加賀藩の普請会所)によると奥村下屋敷となっています。金澤古蹟志によると元和6年(1620)、2代奥河内守榮明が今の兼六園の徽軫灯籠(ことじとうろう)辺りに約3,000坪の敷地を賜り上屋敷とするが、元禄9年(1696)に藩命で上屋敷が下屋敷に移り、以後、173年間奥村家上屋敷でした。
(延宝金沢図・石川県立図書館蔵)
≪奥村氏居第来歴金澤古蹟志≫
石引町の入口なり。按ずるに、元祖伊豫守永福は、天正十一年五月能登末森の城主を命じられ、嫡男助十郎・二男叉十郎父子三人同道にて令入部と、可児才蔵の誓文日記・小瀬太閤記に記載し、利家卿金沢入城の初めより末森に在城せられ、二代河内守榮明元和六年の頃今の兼六園の地に居第を賜はりたり。関屋政春古兵談に、元和九年十二月十八日奥村河内屋敷出火、御城中以の外騒動、火移るやうに見江たりと云々。奥村譜には、元和九年四月金澤居宅焼失、于時定家卿之小倉山荘色紙、平兼盛歌一枚及杉丈木一千丁賜之、寛永八年四月十四日金澤居宅亦焼失、所傳口宜並家財・武器・文書悉焼亡、所残拝領之定家卿色紙耳。とありて、右の居宅は即ち兼六園の地にありし居第たり。然るに六代伊豫守有輝の時、元禄九年(1696)命に依って是までの居第を退去し、石引町の下屋敷へ移転し、是より世々爰に居住たり。三州志来因概覧附録に云ふ。
(安政期の絵図)
最前の第地を官地に命ぜるは、元禄九年九月廿五日なれども、上り地と成るは翌十年十一月也。歩数三千八百四十歩並に倉屋敷歩数千九百四十九歩三尺三寸、此の内四百五十一歩五尺二寸請地共に上るとあり。奥村家記には、居屋敷・倉屋敷共御用地之旨、元禄九年九月廿五日被仰出、同十年新屋敷家作出来、十月廿五日引移、十一月十日元屋敷両所共差上げとあり。夫れより代々石引町の居第に居住し、十四代議十郎榮滋の時、明治二年(1869)冬十一月兵隊の屯所と成るに付、十二月退去すと云ふ。按ずるに、元禄十年より明治二年に至り、年歴凡そ百七十三年なり。右は明治二年十月廿四日義十郎榮滋より、即今之時勢柄若し御用候はば可指上旨、藩侯へ情願有之に付き、同年十一月十九日大隊屯所に可被致皆命あり。依之十二月八日退去、十八日に家屋其の儘引渡したり。然るに廃藩置県の後、陸軍省営所の分営と成りたりしが、途に家屋を毀ちたり。
(元禄9年まで奥村家上屋敷が有ったところ)
(この辺りに奥村家上屋敷が有った)
以後、明治6年(1873)、 金沢城跡内に開設された金沢衛戍病院(旧陸軍)が、明治32年(1899)に下石引町の現在地に金沢第二陸軍病院として移転し、昭和20年(1945)に陸軍省から厚生省に移管され、国立金沢病院と改称し、平成16年(2004)には、独立行政法人国立病院機構金沢医療センターに改称されます。
(昭和の始めの下石引町の地図)
(少し遡ると、昭和39年(1964)の町名変更で下石引町が消滅しますが、平成12年4月1日に現在の金沢医療センターだけが「下石引町」として復活しますが、金沢医療センターの住所は下石引町1番1号と全国でも珍しい約5000坪の一地域が「1番1号」という一つの番地が付けられています。)
参考ブログ
町名復活!!飛梅町、下石引町、出羽町と「三交会」
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12083829198.html
一時消えた!!飛梅町
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12083134507.html
(今の国立医療センター内に有る看護学校)
P.S.
小学校の4・5年だった思う。風邪を引いて、前夜は鼻水が出でて熱も上がり、耳がやたらに痛くなりました。朝起きるとたいした事がないので学校に行くことのなり、痛くなったら病院へ行くようにと、出しなに母は、数10円と電車の回数券を1枚渡されました。
(バス停・昔は下石引町になっていた)
学校の近くの大学病院にも耳鼻科がありますが、知り合いのHさんが国立病院の耳鼻科に医者として勤めたていることを知っていたので国立病院へ行くことにしました。国立病院は学校から市電で2つめの停留所で、いつもは歩いていく距離ですが、帰りに、つらかったら電車でということで渡されていました。
初めての一人病院で一人電車でした。国立病院は低学年の頃、近所の同級生が盲腸で入院し見舞いに行って以来。その頃になると、窓にイギリス国旗のように張られた白いテープはもう無いものの、診察室や病室は大学病院のようなペンキで塗られた洋館ではなく、雑で質素な造りだったことを記憶しています。黒い顔をほころばせて“どうした”との声が聞こえ、久しぶりのHさんでしたが、軽い中耳炎ということで、診察も終わり、支払いのことは覚えていませんが、確かに10円札を握り停留所に向かいました。
(奥村家上屋敷土塀・昭和20年代か)
電車では、国立病院前の下石引町から紫中学前の中石引町、その後は大学病院前の終点です。電車に初めて一人で乗るので、中石引町を過ぎると、車掌が切符を集めに来るのを知らず、あわててポケットから母から貰った切符を渡していました。それがいざ降りるという時に車掌が貰っていないと言い張ります。確かに大勢の人が乗っていて貰ったかどうかは分からなかったのだと思いますが、車掌は“お前!!乗ったとき10円札を握っていて、今も握っているやないか!!”と口汚く私を犯罪者のように罵ります。もうその頃は乗客の降りてしまい誰もいなくなり、助けてくれる人がいません。
泣く泣く10円札を渡し、確か1円札2・3枚の釣りを悔しい思いで受け取りました。以後、その車掌には会ってはいませんが、電車に乗る度に“車掌の帽子すら憎く思えたものです。今、電車は無くなりましたが、最近、たま~に同じ会社のバスに乗り、観光客や乗客に対する乗務員のぞんざいな態度や不親切な言葉に出会うと、見るに見かねて怒鳴っている私がいます。まさか当時の仕返し??そんな事ではないといもうけど・・・。
(今の医療センターの玄関)
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・金沢市図書館「市年表・金沢の百年」