【石引2丁目・石引4丁目】
石引の大通り石引2丁目の左側小路が旧上鷹匠町、4丁目の左側小路が旧中鷹匠町で、藩政期は通称で鷹匠町や新坂高と呼ばれていたようで、明治期に上・中・下の町名となります。明治19年(1886)に出羽町練兵場が出来た時、下鷹匠町(旧出羽町5番丁の裏側)は練兵場に吸収されました。幕末の侍帳によると2,500石の人持組永原権佐家(新坂高)を始め永原家分家や450石から700石の約30軒の中堅直臣の屋敷があります。
(武家地の住所は通称で、侍帳ではこの辺りは鷹匠町や新坂高等と書かれています。)
(鷹匠町の石標)
≪旧鷹匠町金沢古蹟志≫
此の地、旧鷹匠の居第どもありし故に、町名に呼べり。按ずるに寛文の初め頃、鷹匠部屋を小立野へ移すと、国事昌披問答に見江たれば、鷹匠の居第を此の地にて賜ひたるも同時なるべし。寛文二年(1662)十二月の定書に、御鷹匠屋敷被下者共、小立野鷹匠町並に而一所に可相渡という事見江たり、元禄九年(1696)地子町肝煎裁許附に、鷹匠町近所と載せたれば、鷹匠町入口に町家ありたる故なり、さて明治一九年(1886)陸軍榮所の御用地と成り、此の町地悉く絶えたり。
(上記、“悉く絶えたり“と金沢古蹟志にありますが、絶えたのは御鷹部屋のあった下鷹匠町で、上・中鷹匠町は昭和38年の町名変更まで残り、以後石引4丁目になりました。)
(上鷹匠町の小路)
参考ブログ
放鷹術(ほうじょうじゅつ)!?
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12134174255.html
(鷹匠の実演)
≪鷹狩り≫
日本では為政者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ちました。古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものもあります。日本書紀によると仁徳天皇の時代(355)には鷹狩が行われ、鷹を調教する鷹甘部(たかかいべ)が置かれたという、奈良・平安時代には天皇と一部貴族による特権とされるようになり、もっとも盛んになったのは江戸時代で、徳川家康が鷹狩を好んだのは有名です。家康は単なる鷹好きとか慰めの域を越えて「養生法」と捉えていたらしい、また、江戸初期は、武士が戦いの実践を体験ができなくなり、平和とはいえ実践に備えて戦闘訓練を積み、戦いの腕を磨いておかねばならず、“鷹狩りは戦の訓練”であり、“鷹狩りと称した領地視察”だったという。
(鷹匠町の名残・町の看板)
≪加賀藩の鷹狩り≫
2代利長公は殊に鷹狩りを好んだといわれています。利長公は慶長11年(1606)に越中高岡に隠居し召し連れた者の士帳には、御鷹師500石高田伝助以下、250石や200石、100石の士分30人とあり、さらに3代利常公もはなはだ鷹狩りを好み、寛永4年(1627)の士帳に、300石高田伝助、250石千田少右衛門以下、100石、50石まで、35人が載っています。しかし、5代綱紀公の時代(寛永20年(1643)~享保9年(1724)))になると徒組の者になり、小頭だけが知行を賜っています。
寛文11年(1671)の士帳に、鷹匠組小頭200石大平源右衛門・同110石(切米24俵)丹羽惣兵衛とあり、他の資料では大平源右衛門に与力鷹匠(与力知100石)で、ほか与力鷹匠は100石の2人を召抱え、1人は足軽格を召抱えていたようです。ということは、藩政初期には戦闘訓練ということもあり、鷹匠は重く持ちいたれていたのであろう。
(御鷹部屋は、鷹匠町の前は浅野川並木町の前田兵部屋敷のところに有り小立野へ移転したのは寛文の初め、それ以前は野田寺町諏訪神社の後地に御鷹部屋がありました。諏訪は鷹の守護として、その頃、勧請した社だという。)
(安政の絵図)
P.S.
出羽町1番丁~3番丁・下鷹匠町の武家地や欠原町の5万余坪が明治19年(1886)に陸軍の出羽町練兵場になり、追々、敷地内には九師団兵器庫、師団長官舎、将校倶楽部偕行社が建ち、昭和11年(1936)に卯辰山の官祭招魂社(昭和14年(1939)石川護国神社に改称)が移転してきます。
(現在の練兵場跡)
戦争も激しくなると、残りの練兵場にバラック平屋波スレート葺きの金沢陸軍病院の出羽町分院になったといいます。終戦の年、作家の安岡章太郎氏は、戦地で脊椎カリエスだったか胸膜炎を患い大阪陸軍病院を経て金沢陸軍病院に入院し、ここで現役免除になり、昭和20年(1945)6月に退院した話を読んだことがあります。
その分院は我が家の裏にありました。何しろバラック平屋の波スレート葺の屋根は、台風でスレートが木の葉のように飛んだ事もある結核と精神科の病棟で、私が生まれる前から高校になるまでありました。少し調べて見ると、昭和21年(1946)6月2日の 午前8時40分ごろ国立金沢病院(旧陸軍病院)出羽町分院第18病棟(内科重症患者収容)から出火、3病棟と倉庫1棟計約800坪を全焼という記事に出会います。
私の学齢前、我が家2階の窓越しに見た記憶が微かに蘇ります。今の本多の森ホール(旧厚生年金会館)辺りで、後の昭和23年の第2回国体で、焼けた跡に兼六園野球場が造られ、近所の古老の話によると、当時、刑務所の囚人を使い整地を行っていたと聞いたことがあります。
(現在の御鷹部屋跡辺り)
昭和30年代(1955~)には、バラックを改造して、国立病院の従業員の宿舎になり、街のはずれには大きな柳の木があり夏などは木の下へ涼みに行ったことが思い出されます。
(現在の柳の木辺り)・左柳の木・右梅光会)
(柳の木と病院従業員の平屋スレート葺きの宿舎)
昭和37~8年(1962~3)頃だったか、バラックの平屋は全部壊され、野球場のレフト側裏の道路の脇にコンクリートの病院アパートや看護婦学校の寄宿舎になり、残った土地の全体を当時、金沢では良く知られた会社に任され坪5,000円で払い下げたという噂さが立ちましす。後で、直ぐに買い入ったという人から聞いた話ですが、その人は買えず、既に完売したと言う話だったとか・・・。
(建て替えられた現在の看護学校寄宿舎)
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・金沢市図書館「市年表・金沢の百年」