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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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小立野の旧上・中・下石引町

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【石引1丁目~4丁目】

石引の大通り!!藩政期からその通り沿いの町並みを石引町(上・中・下)と言いました。現在、小立野の石引1丁目から4丁目といわれる街の真ん中にある直線道路です。文禄の昔、お城に戸室石を運ぶために作られた道で、今、1丁目は、大通りの左側天徳院入口から(金大病院など宝町を省く)旧下安藤町の崖上まで、2丁目は、大通り右側天徳院入口から旧上鷹匠町の入口までの崖上まで、3丁目は、旧大音町全域、4丁目は右側石引バス停の下の小路から兼六園前までの崖上になっています。Google地図参照)

 

(因みに現在は、左側3丁目の下(しも)は紫錦台中学校の飛梅町。その下(しも)は国立医療センターの下石引町。NTTから石川県立美術館までが出羽町になっています。)

 

 

(石引4丁目の大通りから見える山々)

 

文化8年(1811)の金沢町絵図や町名帳では、米屋・八百屋・魚屋・味噌屋・醤油屋、呉服・たばこ・小間物・紙・薬種・生菓子・酒造・雑穀・豆腐・荒物・下駄・金物・質屋・炭・髪結い・鍛冶・医師・飴・綿・油・茶・風呂屋など、およそ江戸時代に考えられる殆ど全ての商家が揃っていて、今より便利かも!!今風に言えば横に並んだシッピングセンターで、今のショッピングセンターにない質屋や風呂、医者まであり、しかも歩いて行け、今より確かに活況を呈していたようです。

 

 

(文化8年の金澤絵図の中石引町界隈)

(昭和30年代の上石引町界隈)

 

そんな石引町も明治に入り、しばらくは維新の波に乗り遅れて地盤沈下した金沢自体とともに衰えますが、やがて第7連隊や第9師団という旧陸軍部隊が城内に設置されると息を吹き返し、戦後はその城内に金沢大学が置かれることから、下宿など学生たちの生活の場としてつい最近まで発展を続けてきました。

(旧上石引町)

 

(旧中石引町)

(旧下石引町・左の病院だけが現下石引町)

 

平成に入ると、金沢大学が角間に総合移転し、学生たちの姿がめっきり少なくなりました。100年近くも文化教育ゾーンとしてその役割を果たしてきた石引も、現在は、通り抜けの車だけがやたらに多く衰退の一途で町にはお店が随分少なくなっています。

 

≪石引町(金澤古蹟志)

此の町名は、舊藩国初以来、城内の用石を戸室山より挽き出せる道路なるに依って石引町と呼べり。三州志来因概覧附録にも、文禄元年(1593)金城の石壁を築かしめらる。石引町は、今年築塁の巨石を戸室山より挽き出す道條なるを以て、此の時よりしか名づくといへり。平次按ずるに、此の町は舊名山崎町なるを、俗に石引町と呼べるものならん。然らば文禄より石引町と名づくるにはあらざるべし。石引町の名は、松平伯耆遠乗(大弐家の先祖?)をして小立野湯涌口へ罷越処、横山山城守為普請、戸室山より石を為石引たり。伯耆石引町を罷通る節、向より大勢の人夫石を引き、きやりを仕罷越処云々。といふ事見江たり。右は寛永・正保の頃ならんか。此の萬治三年(1660)七月の書付に、五兵衛と申者石引町に罷在、慶安三年(1650)に死仕と見江、同四年正月の書付に、山崎領太右衛門と申者、小立抑石引町に罷在り、地子方才許仕ると云ふ事見江たり。元禄九年(1696の地子町肝煎才許付に、石引町・同横町・同後町とあり。今(明治時代)は上石引町・中石引町・下石引町となしたり。横町後町は、石引町と呼べるになし。とあります。

 

(本丸下の戸室石の展示場・1個250kg~300kgぐらいか)

 

文禄元年(1593)以来幕末まで、石伐りは市内大火の際や城内再建の度に戸室山から石を伐り出し運搬を繰り返したという、その記録が7期に分けて残っています。はじめは大勢の住民が動員されて運ばれたそうで、幕末頃になると二輪や四輪の地車といわれる引っ張る運搬車が使われて効率化されたといわれますが、今の様にダンプも重機も無い昔、金沢城の石垣面積約30,000㎡、12万個(明治なり崩れたのを入れると約15万個という、おびただしい量の石を押したり曳いたりして運んだといわれています。

 

 

(戸室山から金沢城)

 

P.S.

石引の町名が文献に表れるのは、上記「金澤古蹟志」にありますように、今から322年前の元禄9年(1696)です。最初の石引きの作業から約100年後。そのころに町名が定着したことになります。

 

 

(金沢城の石垣)

 

実は、私が調べた限りでは、「石引」という町名は全国どこを探してもありません。尋ね歩いた分けではありませんが、地名辞典や町名の本それに地図やインターネットを検索すると、地名としては、四国の山の中など数ヶ所有るだけです。

 

全国の城下町には、江戸時代約250もの城があり、ほとんどが石垣が用いられ、石きり場から距離は遠い所も近い所もありますが、間違いなく石を引いて城を築いたのに、何故か石引という「町名」は他には見つかりません。ということは石引という町名は「日本で一つ」大げさに言えば「世界に一つ」という事になります。これは調べる価値があると無理に思い込み、閑に任せて調べました。

 

 

(左の土塀は現下石引町の医療センター)

 

厚い辞典を熱くなって繰り返し探しました。インターネットの郵便の住所もさがしました。やっぱり石引という町名が見つかりません。閑人ですからいい暇つぶしになりました。

 

結論は、やっぱり「世界に一つ」でした。私の勝手な思い込みで少し怪しいかも知れませんが、一応、中間報告をさせて頂きます。

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行


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