【石引4丁目】
今は民家が10軒と少なくなりましたが、唯一、藩政期から現在もある家が1軒あります。何年か前に御主人がお亡くなりになりましたが、昔、お住まいを壊し自らガソリンスタンドをされていて、後にビルに建て替え、そのビルの裏にお住まいがあり、存命中は町会長もお引き受けになられていました。私が小学生の頃は高校生で、白線帽子にも何処か品があり、颯爽と登校する姿を、家の違いを感じながら羨望の目で見ていたことが思い出されます。
(旧出羽町5番丁・下石引町大通り)
昔、近所の古老から聞いた話、藩政期は奥村家に仕え、家中町の現在の処に屋敷を構えていたということも、私が後に知合いになる御主人の同級生から聞いた武具などを見せて戴いた話も、すっかり忘れていましたが、近年、観光ガイドをするようになってから、金沢の昔を調べるようになり、森田柿園の「金澤古蹟志」で、地元を調べていて、その家の藩政期に出会います。
(村田ビル)
金澤古蹟志の記事によると、この家は奥村家に仕えながら、副業で薬の製造販売をなさっていたようで、最近、政府が進める「働き方改革」による副業の解禁が藩政期に行われていた事実を知ることになります。今も公務員や多くの企業では、営利目的の副業・兼業が制限されています。労働法には「副業・兼業」についての規定は特にありませんが、就業規則に「副業・兼業」の禁止規定を盛り込むことで、企業独自の制限を設けているようですが、あえて「働き方改革」で副業をススメるのは、政府が企業の内部留保で給与がいっこうに上がらないのに業を煮やして言っているのでしょうか?
(そう言えば、藩政期、加賀藩の多くの家中町では、内職しなければ食っていけないため、内職が常態化し「長のリンゴや村井の柑子」といわれた庭の果実だけでなく、手内職が大切な収入源になり、立派に商品として流通していたらしく、長家では、髷をしばる元結が有名で、その元結で”鎧“”兜””お雛様“などの玩具を作り、村井家では、菅笠、竹の子笠の笠当て、今枝家では提灯や凧をこしらえて家計を補ったといいます。)
(村田ビルの看板)
副業の薬の製造販売は、主家から許可を得ていたものと思われますが?主家や家中町の陪臣への気がねもあったのか?看板も出さず、その代わり?門の屋根を農家のような「藁屋根」にし、当時、大通りで町家の町並みにひときわ目立ち、逆に宣伝効果は抜群だったと思われます。
(小立野の奥村氏と下邸・安政の絵図より)
≪昔、薬の製造販売 村田五香湯≫
此の薬は、奥村氏元家中に居住せる村田氏の傳法にて、産前産後の妙薬広岡五香湯の本家なり。村田氏も庄田氏(下記)と同じく奥村氏の家士たりしかど、右五香湯の傳法如何なる由緒にて家に傳わるか、今傳書もなく詳かならず。広岡五香湯の本家といふ事は、家の傳話に云ふ。昔村田の歴代に幼少にて相続せし者あり。その者の乳母広岡村の百姓の娘なり。成長の後乳母の労を謝せん為に、家傳の薬方を伝えたり。然るに広岡の五香湯は、年を逐うて名高く成り、村田五香湯は知る人稀なりしかど、広岡の本家にて、広岡へは薬種の内一味省きて相傳すといひ伝へなり。従前は村田氏には看板をも出さず、門の屋根を藁葺となし、是を目あてとなし山里の者尋ね来れる故に、今に至り尚藁葺になりしありとなり。
(旧出羽町5番丁裏通り)
≪藩政初期、家中町の副業 庄田萬金丹≫
此の薬は、奥村氏元家中に居住せる庄田氏の傳法にて、高名なる良薬なり。亀尾記に云ふ。奥村内膳の下邸囲中に唐人屋敷と去ふ所あり。朝鮮征伐の時、捕われたる朝鮮人を、奥村快心入道へ預けられたり。今彼の家士庄田某の家に製する萬高金丹は、彼の朝鮮人の傳法なりと云ひ伝えたりとぞ。平次(柿園)按ずるに、今、庄田氏の傳書には、萬金丹は随春と云ふ明医の傳法なり。随春をヤンチンと呼べりと。此の人如何なる故にや加賀国へ来りけるを、奥村二代河内守榮明へ預けられ、河内守の従士庄田の元祖庄田市佐孝治が家に、従僕と両人三年寓居し、後武州へ赴き終に歿すと云ふ。武州へ赴きける時、日頃庄田市佐懇意にせし謝礼として、薬方を種々相傳せし中にも、萬金丹は殊に随春家傳の妙方なりし故に、伝授せし上は随春家に再び調合致すまじく、庄田の家薬にすべしとなり。随春の末孫は、江戸幕府の役者小笛庄兵衛なりと去ふ。とあり、思うに、奥村河内守榮明は元和六年五月卒すれば、随春が庄田の家に寓居せしは、文禄・慶長以来の事たらんか。然れば亀尾記に、朝鮮陣の擒の内なりといふ傳説は正説ならん。明の乱を避けて帰化せし人ならんかと云ふ説もあれど、非なるべし。
(手前のビルと松原病院の間が村田ビル)
家中町(かっちゅうまち)
加賀藩では3,000石以上の藩士に、自邸以外に藩から土地を拝領し、下屋敷と称して自身の家来を住まわせていました。ちなみに幕末、文久の頃、加賀八家と言われた8家(本多家・長家・横山家・前田長種家・奥村宗家・奥村支家・村井家・前田土佐家)と3,000石以上の人持組39家(3,000石以下も含むと人持組68家)の47家が、藩から土地を拝領し、下屋敷と称して自身の家来を住まわせました。この人達の住んでいる所を家中の町から、「家中町(かっちゅうまち)」と呼びました。
(松原病院の裏通り)
P.S.
今、私が住む石引4丁目の裏通りの民家は8軒。新しく移ってきた家もありますが、概ね年寄りだけの家が多く、子どもがいる家は3軒です。通学路でもあり、子ども達を顔で判別できませんが、最近は少子化の影響で昔の様に子どもの数は多くはないようです。私が子どもの頃は、私が住む裏通りには12軒あり、そのほとんどに子どもがいて、町内会(三交会)の内でも子沢山の班で、30数名の子どもがいました。
(旧出羽町5番丁裏通り・突き当たり松原病院)
その頃、日曜日や平日の午後になると、裏通りは子ども達の遊び場で、近くの子ども達も集まり、男の子は、「テニスボールで玉投げ」や高学年になると「軟式球でキャッチボール」、女の子も交えて「ゴム飛び」や「だるまさんが転んだ」などで日が暮れるまで遊んでいました。当時、我が家の2階に間借りしていた親子がいて、兄のほうが警察官で、お昼に自転車で家に寄り、用をたしている数分の間に自転車が盗まれるという事件が起こりました。それも私を含め4~5人が見ている間に・・・。疑うことも知らなかった子ども達は、瞬間の出来事で誰も自転車泥棒だとは思わず、やり過ごしたのです。
今もその様子が目に浮かびます。ごま塩頭のグレーの長コートの男が、スウーと来て、自転車に跨り、あっという間に道角を曲がっていきました。それがトラウマになったのか、今も自転車に乗る時は、置き場所と鍵に細心の注意を怠りません。
知らないでは済まない事!!そして油断禁物!!を学びました。今のところはその教訓は活かされていますが、これからは少しボケが来ているので、どうなることやら・・・。
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編