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小立野の旧出羽町5番丁(藩政期奥村氏下邸)①

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【石引4丁目】

出羽町5番丁は、藩政期、間口約102間、奥行約29間。2,650坪の奥村氏下邸(家中町・かっちゅうまち)でした。奥村宗家の上屋敷は、現在の国立医療センターですが、下邸(家中町)は、安政の絵図によると小立野に3ヶ所あり、その一つで、明治4年(1871)の町名改定で旧出羽町5番丁一部旧下石引町に分けられました。昭和38年(1963)に町名変更で、出羽町5番丁は、出羽町24番丁、下石引町、飛梅町も含め、石引4丁目となります。

 

(昭和38年には、出羽町は出羽町1番丁が兼六町(兼六園内1部)と出羽町(旧下本多町1部含む)」に、飛梅町は昭和41年に「石引34丁目」に改名されますが、平成12年(20004月の町名復活で旧飛梅町が「飛梅町」に医療センターだけが「下石引町」に復活します。)

 

 (左側が旧出羽町5番丁・旧下石引町)

 

参考ブログ

町名復活!!飛梅町・下石引町・出羽町と「三交会」

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12083829198.html

 

≪奥村氏下邸(古蹟志)

此の下邸は、石引町の片原にて、出羽町四番町(丁)と地続きたりけるに依って、旧藩の後町名を立て、出羽町五番町(丁)となしたりといへども、世人は今(明治時代)も奥村家中と呼べり。旧藩中は、奥村氏の家士のみ居住せし故たり。按ずるに、延宝の金澤図に、石引町奥村氏元第地をば奥村伊予下屋敷と記し、前通り百十間五尺(後奥村宗家居屋敷)とありて、共の隣地をば前田対馬下屋敷と載せたり。対馬下屋敷の向地をも奥村伊予下屋敷とたし、前通り百二間二尺奥行廿九間二尺とあり。是今いふ家中の地なり。

 

(旧出羽町5番丁は、藩政期奥村氏下邸でした)

 

≪この辺り、昔、鍔屋小路と言ったとか!?≫

「金澤古蹟志」によると、元禄の頃、奥村下邸辺りを鍔屋小路といい、昔、鍔屋宇右衛門と2代権兵衛いう鍔鍛冶の名人が居て、大通りの町より小路にかけて大きな家で、裕福で有ったが3代目婿三郎右衛門の時代、戦争もなく平和で、鍔を吟味する藩士が少なくなり、次第に零落したそうです。詳しくは、少し長くなりますが、下記に記します。

 

(元禄6年の士帳に、石引町後鍔屋小路と見え、今も石引町の裏、元奥村下邸の小路を呼べり。奥村丹後守下屋敷辺りを鍔屋小路といい、昔、鍔屋宇右衛門とて鍔鍛冶の名入居たり。その子権兵衛と云へるものも上手にて、二代ともに名高く、通り町より小路にかけ大きなる家作にて、裕福に有之処、次第に零落なしたりけん。権兵衛の死後、その婿三郎右衛門といへる者、家を継ぐといえども、遂に右の家屋を売り払い他所へ退去しける。

 

然れども名高き鍔屋なりしゆえにその名残りて、今に至りて、鍔屋小路(つばやしょうじ)といへば、人この所へ来るたりとぞ。或人曰く、当地金澤府下に刀剣の鍛冶は、兼若・勝国・兼巻・清光或は家次・家忠などを初めとして、幾多の鍛冶共多く、その弟子家の鍛冶も数名ありといへども、その鍛へたるものは刀、腰物の類或は鎗・長刀・矢根・小刀の類のみにて、いまだ兼若・勝国などの打ちたる鍔を見たる事なし、鍔も剣と同じく、共の鍛治を吟味するは勿論なり。いにしへより諍職の時‘鍔を切り割られ、夫れが為め疵を蒙り、或は戦死せし人なきにあらず。故に国初の頃は、刀剣と共に鍔鍛治の名人を選び鍛はせたりといへり。

 

されば小立野石引町鍔屋小路の鍔屋鍛冶が名高かりしも、当国の刀鍛治に鍔をよく鍛へける人なき故なるべし。後世に至りては、鍔など吟味する藩士もなき故に、その道に名高き鍛冶も出ですと云う。平次按ずるに、金澤町会所留記に載せたる元緑4年閏8月町奉行よりの建書に、当所古着買・古金買之内に、不埒成る者有之に付、為縮石引鍔屋権兵衛等三人肝煎に申付、右商売人相改、札を渡し縮為致候由記載す。右達書にて見れば、鍔屋権兵衛は元禄頃の人たれば、共の父名人なる宇右衛門は、寛文頃などの人たりしこと知られけり。)金澤古蹟志より

 

(昭和前期の出羽町5番丁の地図)

(石引4丁目・旧出羽町5番丁旧下石引町)

 

明治4年(1871)の町名改定の時、奥村家下邸は、一部が下石引町に吸収され、他は出羽町5番丁となります。私は、生まれてこのかた今の石引4丁目(旧出羽町5番丁)の裏通りの住人ですが、この矩形の土地は、当時、病院と空き地と38軒の民家と商店があり、何故か住所が大通りも裏通りも出羽町5番丁下石引町が混在していました。最近では、民家9軒とスーパー1軒に会社のビルが3棟、共同住宅が1棟、他、病院と付属の1施設、そして病院の寮2軒、キリスト教会と教会の保育所と様変わりしました。教会の紫木蓮は今も健在です。

 

(聖ヨハネ教会の紫木蓮・2015)

 (聖ヨハネ教会・2018)

 

(聖ヨハネ教会の開設は昭和33年頃でしょうか?それ以前は空地で高い塀の内側に紫木蓮がありました。)

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編


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