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小立野の旧大音町(おとうまち)

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【石引3丁目】

旧大音町(おとうまち)は、旧下安藤町の下(しも)隣の小路で、藩政期は大音氏下邸といって、向かいの大音帯刀家の家中町で廃藩後は大音町と町名が立てます。明治は、まだ大音家中と呼ばれていたそうです。延宝金澤図には、前口四十間四尺五寸、東側七十四間三尺五寸、西側百八間三尺五寸で約4,000坪ありました。大音氏の下邸だった頃、地内に観音堂あり、堂内に銅像を安置し、毎年七月十日は四万六千日、堀川大岩寺の和尚が来て施餓鬼を執行され、廃藩の後、この堂宇は壊されたという、銅像の御厨子に下の記載があったという。

 

奉拝請安座十一面大悲尊

                    尊像安阿弥之作

伏冀。天下泰平。国土豊饒。君臣武運長久。家門無病息災。

衆怨退散。子孫繁栄。福寿綿延。火盗双消。諸縁吉利者也。

        享保十八(1733)癸丑林鐘十七日

              大音主馬敬白

 

家伝では、この仏像は霊験いちじるしく、そのかみ尻地にある裏門坂より盗人が入って、この銅像を盗み往かんとするが、身縛りのようになり行くこと叶わず、ついに尻地の崖に捨てて行ったとか、これにより他方(ほかから)の参拝を禁じたと伝えられています。

 

 

 (旧大音町入口)

(旧大音町の尻地の崖辺り)

 

大音町(おとうまち)大音家中と呼ばれていましたが明治2年(1869)にこの名が付けられ昭和39年(196441日に町名変更で 石引3丁目 になりました。

 

(安政年間の絵図)

(旧大音町)

 

≪大音主馬(帯刀)邸跡(金澤古蹟志)

石引町通り筋に武士屋敷は、奥村氏大昔氏のみなりしかど、明治廃藩の後退去し、邸跡は町家数戸となりたり。大音氏は家禄四千三百石なり。按ずるに、改作所奮記に載せたる田井村五郎兵衛(無組十村)より算用場への進達書に、當夏小立野石引町大音主馬殿上屋敷に相渡り、共の替地に田井村高之内地子に下し申儀云々とあり。右は寛文2年(16629月の事なれば、此の歳の夏居屋敷に渡り、その以前は地子地にて町家共ありしを、田井村の地内にて替地渡りしと聞ゆ。旧傳に云ふ。此の邸地に、そのかみ幽念寺といへる禅利ありて、地内に大杉と呼びける巨大の杉樹あり。この寺地なりし時の遺木なりけん。此の地跡卵塔の跡たりといひ傳へたりと。故に大音氏此の邸地に居住中は、毎年七月盆中高燈籠を燈すを家例とせり。右大杉と呼べる老樹は、若し枝にても伐採する時は必や祟りありとて甚だ恐れ、伐採を禁ぜしかど、邸地売却の後遂に伐り取り、今はなしとぞ。

 

 

 (旧中石引町の大音帯刀邸跡・約72m)

 

大音家は初めの邸地が木ノ新保に有ったが、寛文2年(1662)夏石引町に移転。延宝金澤図では、前面三十間弐尺、東側二十九間、西側三十間二尺五寸、裏面四十三間で約1,200坪)

 

(美容院の駐車場まで帯刀邸跡・至新坂)

(空き地から帯刀邸跡・至嫁坂)

 

≪大音帯刀家≫

大井直泰は、利家公越前時代に家臣となり、各合戦や主に能登方面で政治活動を行い能登小丸山城代になる。その実子厚用(あつもち)も幾多の合戦で活躍した。厚用(あつもち)は、通称藤蔵・主馬。一諱厚甫・貞尊・正泰。厚用(あつもち)は、故あって大井氏を大音氏に改め、幼にして前田利長公に仕へ、八王子役及び大聖寺役に戦功があり、父退隠後家を継ぎ、加禄四千石を受け、大阪両役に従ひ、更に千石を加へ、寛永年間(16241644)の始め魚津城代となり、寛永13年(1636)を年66歳で没した。長子伊右衛門早く没し、次子助右衛門は大聖寺候に従い、家督は前田利家公三男の知好の長男好次を迎えた。

 

P.S.

小学校の頃、今もそうですが、旧大音町の並びに紫錦台中学校があり、運動場の一角(当時バレーコート等)は、藩政期の地図で見ると大音家の旧家中町の敷地が含まれています。当時、運動場から2ヶ所が旧家中町の道に繋がっていて、そこには門も無く誰でも出入りが自由になっていました。夏の夕方は涼みに大音町の大人も子どももかってに入り遊んだり、野球の練習を見ていました。当時、紫錦台中学野球部は市の大会で優勝するなど強くて、それだけに練習も厳しく充実していて、選手は子ども達にとってスターでした。

 

(S31年、紫錦台中学のグランド(バックネット辺り)

(大音町側のグランドへの昔の入口1)

(大音町側のグランドへの昔の入口2)

 

中学の向かいに住む私は、その頃野球少年で小学校から帰ると運動場の門から入り、大音町勢には近付きがたく、グランドの隅っこで一人練習を見ていました。練習が終わると年上の中学1年生が寄ってきて「お前、中学になったら野球部に入るやろ!」とチョッカイを掛ける者もいて、すっかりその気になっていました。

 

 

(昭和31年の紫錦台中の航空写真)

 

父に相談すると、私が幼児の頃病弱だったことを理由に「練習に付いていけないぞ!!」と暗に反対され、厳しい練習を見ていたので、やる前から諦めた苦い思い出がありますが、今も当時のバッテリーは覚えています。ピッチャーは樋口さん、キャッチャーは西能さんで、西能さんは後にプロの阪神タイガースに行ったと聞いていました・・・。

 

(日本プロ野球記録を見ると大阪タイガース「西能 勇夫」捕手 背番号572年目が46)在籍は昭和33年(1958)~昭和34年(1959)の2年間で、試合出場は1年目1回、刺殺1の記録が残っていました。)

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編・日本プロ野球記録


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