【石引2丁目】
上あんどん町、中あんどん町、下あんどん町!!石引通り中石引町の北東に位置する三筋の小路の通称で、漢字で書くと安藤町です。私の通った旧石引町小学校と同じ校下にあり、近くなので物心が付いた頃から、大人達の口移しで、何の疑問も持たず”あんどん町“と呼んでいました。
(安藤町の標柱・2月6日平成で2番目の大雪風景)
町名の由来は慶長年間の大坂冬の陣・夏の陣に従軍した鉄砲組の足軽頭安藤長左衛門配下の鉄砲組足軽の組地だったことにより、この名が付いたらしい・・・。安藤氏は寛文年間(1661~1672)金沢を去りますが、その直後に描かれた延宝金沢図((1673~81)には、上安藤町の所には、神尾伊兵衛預拾人、その下手には神尾伊兵衛預拾一人内小頭一人、中安藤町及び下安藤町には、それぞれに明与(あけぐみ)足軽拾五人内小頭一人と描かれています。
(旧中石引の通り)
≪金沢古蹟志には≫
俗にアンドシ町と呼べり。此の町は、大音下邸の隣地にて、石引町の小路なり。延宝金沢図に、明與足軽組地の由記載す。三州志には、今、金沢小立野安藤町は、安藤長左衛門第宅の奮地と言うと。平次按ずるに、此の地は、従来、鉄砲組の軽卒の組地なり。安藤氏は即ち鉄砲組の足軽頭なり、されば組子の者と共に此の地に居住せしか。蓋し新竪町の後町杉浦町も軽卒の組地にて、延宝の金沢図に、杉浦仁右衛門預足軽と記載ありて、杉浦氏の組足軽共の組地なるにより、杉浦町と今これを呼べり、されば安藤町も安藤氏の組足軽い共の組地たる故に、安藤町とは呼べるなるべし。此の地などに、いにしへ藩士の居第あるべきよしなし。安藤氏の第跡といふは過聞なるべく、おもうに昔は居第に依って、町名となすもの皆俗名を以て呼べり。所謂、彦三町・宗牟町・宗叔町或は出羽町・信濃町の類是也。杉浦町の例にて見れば、組地はその頭の苗字を以て呼ぴたりけん。
(旧上安藤町の雪景色)
安藤長左衛門傳略(金沢古蹟志)
安藤氏の子孫金沢になきゆゑ、その履歴詳からず。三壷聞書等を考ふるに、中納言利常公に奉仕し、二千石を賜はり、鉄砲足軽大将を命ぜられ、慶長十九年(1614)大坂冬陣に出軍す。元和元・二年(1615・1616)の士帳に、鉄砲頭二千石安藤長左衛門本多組とあり、三州志に云ふ。安藤長左衛門、世本に二千石、一本には千五百石とす。萬治初めの士籍に、小姓衆の内に、即ち千五百石安藤長左衛門とあり、今、江戸本丸御留守居番二百俵安藤長左衛門祖なり。元祖長左衛門は、金沢一向宗専光寺の檀那にて、即ち同寺過去帳にあり。長左衛門の子長兵衛その時浪人せるか、同寺天和年中の過去幌長兵衛肩書に、浪人とあり。その後江戸へ行き、幕府の旗本と成りたりと聞きゆ。長左衛門病死は寛文五年(1665)十一月十二日たり。寛政十二年(1799)江戸安藤氏より聞番まで問合ありて、始めて當時長左衛門の子孫旗本にある事知られたり。叉寛永十六年小松へ引越す緒士の中に、二百石安藤助左衛門と云ふあり、長左衛門と同族たるか。今藩士中に此の苗字なしといへり。
(旧上安藤町と下安藤町をつなぐ道の雪景色)
文政6年(1823)から明治4年(1872)に上安藤町と呼ばれていたところの裏側が“裏百々女木町”と改称され、下安藤町魚谷呼ばれたところが“わらや谷”と改称されたとありますが、明治3年(1870)の金沢の地図には上安藤町、中安藤町、下安藤町の町名が記され、下安藤町の末端にあたる箇所は藁屋谷(わらやだに)と書かれています。明治4年(1871)には裏百々女木町が藁屋谷を吸収合併。さらに明治5年(1872)の町名の改定で明瞭に裏百々女木町は上安藤町と改称されています。因みに安政年間(1855~1860)の絵図には、上安藤町と下安藤町は崖上で繋がっていて、中安藤町は袋小路になっています。
昭和39年(1964)4月1日の町名変更で、上安藤町、中安藤町、下安藤町は、 石引1丁目・3丁目、宝町となり、“安藤町”の名は、今も町内会の名称として残っています。
(明治3年の地図・上・中安藤町と内下丁そして藁屋谷が書かれています)
≪安藤町出身の偉い人≫
阿部信行は、上安藤町生まれ。百々女木町小学校の後、東京の中学校から金沢の四高に学び中退し陸軍士官学校を経て陸軍大学校では成績優秀の「恩賜の軍刀」組。後に陸軍大将。昭和14年(1939)8月30日から昭和15年(1940)1月16日の140日間、内閣総理大臣をつとめます。
(下安藤町の入口にある標柱)
小川直子は、下安藤町生まれ。23才で鶴来の医師の子で加賀藩士に登用された小川幸三と結婚します。夫の幸三は草莽に志士として知られていますが、元治元年(1864)“禁門の変”で世嗣前田慶寧公が退京したとき、近江海津におもむき勤王の意見をのべたため捕らえら、無断出国の罪で元治元年(1864)10月26日、29歳で処刑されます。
(幸三は明治24年(1892)11月靖国神社に合祀され、12月特旨をもって正五位に叙せられた。)
直子は「夫の志をついで学問の道を進もう」と決心し、30才の時には金沢女学校の先生になり、その後も石川県女子師範学校、青森県女子師範学校、京都府立高等女学校の先生となり、明治26年(1894)から品川弥二郎の推薦により宮内省の御用掛をつとめ、昌子内親王、房子内親王の教育を担当した。大正8年9月6日死去。80歳。初名は昌。著作に「忍草」。
(旧下安藤町の崖上)
P.S.
私の学校帰りの道筋に安藤町がありました。小学校の同窓生や友人は7・8人いたと思います。特に仲の良かったのが2人。上安藤町の住んでいた友人の家の庭に柿の木があり、食いたくなり木に登り、足を踏み外し頭から落ちてしまいました。とっさに木に掛けてあった物干竿を掴み、頭を打ちつけることなく助かったのですが、物干竿は折れてしまいました。
(上安藤町の雪景色)
子供ですから、友人は竿の折れたことで、親に叱られることで頭がいっぱいだったのか、私を責めまくります。今になれば分からなくもないのですが、私は“泣き面に蜂”状態で逆切れして喧嘩になりました。友人は、母親に何と言い訳したのだろうか?その後、何回か、その事を嫌味たっぷりに言いますが、彼はすっかり忘れていました。あれから66年、その間、友人として、仕事で便宜を図って頂いたり、飲みに行ったりしていましたが、先日、旧上安藤町を通り、彼が住んでいた家の前でその事を思い出していました。そして、この歳になり自分の執念深さに気付かされます。
(旧中安藤町の雪景色)
もう一人は、中安藤町の友人です。前と後と横に庭があり、横の庭は100坪ぐらいの畠になっていて、その隅っこに蔵があり、入りたくて仕方が無かったのですが、彼も厳しく言われていたのか、今は壊れて家が建っていますが入れなかったのが残念で、外から蔵を見るたびに執念深く思い出していました。友人の年老いた父は農学や林業の権威で、友人も自然に詳しく、朝早く付いて行くとカブトムシや鍬形を見つけたり、ある時は道端でカエルや川で蛇を捕まえ解剖をしました。また、年の離れた姉は美専生で、彼も後に美大へ行きますが、雨の日は、外で遊べないので、家で“近め写生”をしようといい、はじめて写生をしたのが、後に、私のデザインを仕事に繋がっていきました。
(写真撮影は、2018・2・6・金沢は68cm(新聞発表)の大雪の日)
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 「加能郷土辞彙」日置謙編 ウィキペディアフリー百科事典など