【旧河内町・旧三所町】
土取場の北西に位置する旧河内町は、藩政期加賀八家の一つ奥村家の家中町(下屋敷)で、現在、金大病院に入る取り付け道路の石引通り沿い、北陸銀行から別所文玉堂の向い小路(旧三所町)までの約150m、奥行き約50mをいい、明治2年(1869)町立されます。
(今の旧河内町・金大病院前)
明治25年(1892)旧石引町小学校が開校し、旧永原家の家中町を含む大きな町であったと推測されますが、明治35年(1902)の同校の大増設により人家が移転し、それが河内町の人口減少に繋がったものと思われます。大正11年(1922)以来、旧河内町と旧三所町合同の町会の愛称を「紫錦会」といいますが、その“紫錦が陵”というのは小立野台の愛称でもありました。戦後、金沢二中跡が新制中学校になったとき、紫錦台中学校としました。
(河内町の石柱)
河内町の読みか方は「かわちまち」です。 奥村宗家の当主の多くは伊予守に任じられていますが、河内守に任ぜられた時もあり明治の初めこの名がつけられました。
(現在の町名:石引1丁目・ 昭和38年の町名変更)
(安政の絵図・えんじ色の部分は現在の金大病院)
永原久兵衛と永原家家中町:延宝年間金沢城下図(1670年頃)には、永原左京下屋敷となっていますが、江戸中期(1790年頃)になると永原求馬の居屋敷になっています。江戸後期安政(1858年頃)の絵図には永原久兵衛・永原家下屋敷(家中町)・永原と描かれています。絵図では、真ん中の道(家中町の道路)は、拡張され現在金大病院の正面の道路になっています。
(家中町(かっちゅうまち)金沢では、藩政期 3000石以上の藩士には、自邸以外に藩から土地を拝領し、下屋敷と称し、自身の家来を住まわせました。この人達の住んでいる所を、「家中町」と呼びました。)
(旧三所町・右側が現在金大病院)
(旧三所町・仰西寺)
三所町の読み方は「みところまち」です。町名の由来は、三ヶ町の合併があったからとも、白山三所権現尼の三仏画があったからとも言われているそうですが、いずれも確証のある説ではないみたい・・・。地子町で、万治2年(1659)、材木町から仰西寺(ごうさいじ)が移転してきたため、藩政中期ごろには仰西寺町や仰西町横町と呼ばれていましたが、文政6年(1823)に三所町と改称され、明治5年(1872)藩政期そのままに改名もなく昭和38年の町名変更まで存続。現在の金沢大学病院付近にあった町名で、因みに大学病院は、明治38年(1905)に殿町から移転した石川県金沢病院がもととなっています。
(現在の町名:宝町、石引一丁目・昭和38年町名変更)
(地子町(じしまち) 地子銀(土地に対する税)を払う町のことで、金沢の町のほとんどは、地子町でした。)
(仰西寺の案内板)
≪参考≫
隣接する上石引町の読み方は「かみいしびきまち」です。藩政初期、金沢城の石垣を築くため、戸室から切り出した戸室石を引いて運んだ道筋であったので、この名がついたという。上・中・下石引町があり、“いしびきちょう”とも呼ばれました。
(現在の町名:石引1・2丁目、笠舞2丁目・昭和39年町名変更)
(石引通り・パチンコの看板まで岩倉寺跡・銀行下、約150mまでが奥村家中)
(七ケ所(しちかしょ) 町の格付けでは、本町の次に位置づけられ、夫銀(ぶぎん)が課せられた。石浦町、大工町、石引町などが7ヶ所あった。後に町が増えても「七ヶ所」と呼ばれました。)
(京都東本願寺)
P.S.
仰西寺といえば、平成19年(2007)6月、十年程前になりますか、当時、私が参加していた会で研修旅行があり、京都の東本願寺に行きました。
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌特別記念事業として、後に12年の歳月をかけて行われた大修理は、その頃、御影堂の屋根の修復が行われていたように記憶しています。
(東本願寺で見た日本画)
研修旅行の世話人が、当時、真宗大谷派の宗務総長を務められていた金沢の仰西寺の熊谷宗恵師と同窓生ということで、師は、公務で忙しい中をわざわざお話をして頂いたことが思い出されます。
(東本願寺と京都タワー)
昭和の改築で、京都帝大教授の武田五一博士の建築監修のもと、参拝者の休憩や寄付等の受付窓口として新築されたものや黒書院や能舞台など非公開部分を見せて頂きました。そして戦前の著名な日本画家の竹内 栖鳳(たけうち せいほう)の襖絵などを、さらに飛地の名勝「渉成園」を見せて頂き感動したことが思い出されます。
(東本願寺(真宗大谷派)では、門首に象徴で、最高議決機関である宗会に対して責任を負う内局を率いる宗務総長が、国の内閣総理大臣に相当する地位と権限を保有しています。)
参考文献:「小立野校下の歴史」園崎善一著 2001発行ほか