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小立野の旧町名③上・中・下弓ノ町

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【小立野5丁目】

昭和39年(196441日に、旧上・中・下弓ノ町が小立野5丁目に町名が変更になりました、上・中・下弓ノ町は、金沢市公式ホームページの旧町名欄に「天和の頃(16811683)から足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、通称小立野弓ノ町と呼ばれ、明治5年(1872)、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地は下弓ノ町となった」とあります。

 

 

(金沢商業高校前・旧上弓ノ町)

 

(かって金沢の旧市内に「弓ノ町」と名の付く町が幾つかありました。それらは藩政期、持弓足軽の組地だったところで、今回紹介する小立野弓ノ町と呼ばれた町の他に、安江町辺りにあった弓ノ町(枡形弓ノ町)や現在でも分かる地域の名が付いた長田弓ノ町、三社弓ノ町、六斗林弓ノ町があります。)

 

 

(明治3年の地図に藩政期の小立野の寺と下屋敷と組屋敷を記述)

 

(上弓ノ町)

(旧中弓ノ町)

(旧下弓ノ町・美大裏より)

 

「金澤古蹟志」の“上・中・下弓ノ町”

此の地は、旧藩中は持弓足軽の組屋敷也。万治二年(1659)十一月の定書に興力侍並足軽御弓乃者被下屋敷、寄親・組頭へ打渡、頭より共組中へ致割符可相渡。とあり。但し此なる弓組の屋敷地は,万治より遥か後なり。天和元年(1681)十二月八日奥村兵部より半田権之佐・小泉勘十郎両名宛の書翰に、各組足軽居屋敷並射場、小立野経王寺後にて、願之趣入御覧候処、願之通可仕旨被仰出。とあり。右半田・小泉両士即ち持弓頭也。此の組地は鶴間谷の高辺也。従前は経王寺の方なる組地を経王寺組と呼び、如来寺の方などは如来寺組と呼べり。さて廃藩後は如来寺組の一町を上弓ノ町とし、終王寺組の一町をば中弓ノ町とし、又其の次なる横山同心組の組地をば下弓ノ町と称する事となりたり。

 

 

(今の如来寺)

(今の経王寺)

 

「金澤古蹟志」の“持弓軽卒の来歴”

藩国官職通考に云ふ。持弓頭・持筒頭七人一組興力三人、足軽四十二人、内小頭六人、横目六入・手替六人。但し弓三組・筒四組也。延宝八年(1680)十月甘九日始めて頭三人を命ぜらる。弓頭小泉勘十郎・半田権佐・筒頭は加籐十左衛門也。一組与力三人。弓組は三十張、筒組は鉄砲三十挺預けらる。故に足軽三十人、外手替六人、内三人は頭へ下され、軍装の時は組へ出す。小頭六人、都合人数一組四十二人、宛行米高千百十俵也。頭への役料は百五十石、是は最初より被下と見ゆ。右足軽の宛行高等凡て大組の通りにてありしゆゑ。俗に中組と称す。按ずるに、大組中組合せて十組也。諸格一致の振合也。因って称号大組・中組は優劣ありていふに非ず。人高の多少を以ての唱へなるべしと。平次按ずるに、持筒足軽といふは、既に瑞龍公(利長公)時二組あるよし可観小説に見ゆ。

 

(可観小説:加賀藩五代藩主前田綱紀公に仕えた儒学者青地礼幹の説話集です。)

 

 

(旧元鶴間町金沢刑務所・現金美大正門前)

 

「金沢古蹟志」の横山与力同心屋敷

此の地は、今下弓ノ町と呼べり。旧藩中は藩士横山蔵人の与力同心の邸地にて、同心屋敷と称す。改作所旧記に、寛文四年(1664)閏五月廿八日上野村之内横山志摩殿え長四十二間五尺幅廿二間相対下しに成。地子銀二分五厘歩也。今之同心屋敷。と見え、又元禄七年(1694)横山志摩殿与力並同心屋敷二千五百六十二歩(2,562坪)、上野村領之内戌八月廿日打渡す。とあり。

 

(明治12年「金沢区市街図」に、経王寺より中弓ノ町に行く筋を「元つるま丁」後ろに「下つるま丁」と記されています)

 

 

「金沢古蹟志」の与力同心来由

吉岡氏の撮要須知に云ふ。甲陽軍鑑末書にて考ふるに、武田家にては与力と云ふ、又同心と云ふ。一人二役の如し。与力同心と連続して書く事は、源平盛衰記に既に見えたり。古き唱えなりしことを知るべし。わが藩にては金沢町同心というのは、士の役名也。足軽に列にては、御台所同心、定番付同心、さて横山同心、多賀同心といへり。其の意は一つにて、事は分ち有りと知るべしといへり。案ずるの横山同心・多賀同心は、旧藩五世綱紀卿の時、横山筑後・多賀信濃両人被取立時、初めて与力力士と同じく付属せされたり。

 

(与力同心は、どれだけの禄高だったのか不明)

 

(上弓ノ町・五木寛之氏の東山アパート)

(左鶴間坂9

(鶴間坂)

(鶴間坂の石標)

 

≪小立野弓ノ町の周辺の街≫

上鶴間町(現小立野3・4丁目の一部):藩政期には天徳院門前(下馬)と呼んだところでしたが、明治2年(1869)の町名変更で天徳院門前三っ辻寺の方の60軒及び天徳院・如来寺が上鶴間町と命名されます。(小立野34丁目には S39.4.1

 

 

(旧上鶴間町)

 

下鶴間町(現石引1丁目・宝町の一部):鶴間町の名称の由来は町の東方のごく近くに鶴舞谷、今の鶴間坂と呼ばれる坂があり、その名称から鶴間町と名付けられたそうです。かっては、経王寺跡(金大医学部)の一部と藩政期の経王寺門前・経王寺横町を明治2年(1869)に下鶴間町と命名されます。(石引1丁目宝町にはS39.4.1。)

 

 

(旧下鶴間町(経王寺門前)

 

(昭和39年4月までの周辺地図・黄色が上・中・下弓ノ町)

 

元鶴間町(現小立野5丁目):明治12年(1879)の金沢区市街地図では、経王寺門前より中弓ノ町に至る道路筋に「元つるま丁」の地名がみえます。明治40年(1907)に金澤監獄が中・下弓ノ町へ移転された際、元鶴間町に変更したのではないかと推測できます。

 

 

(元鶴間町・金沢刑務所職員官舎跡・金沢美大構内)

 

(旧元鶴間町・旧刑務所所長官舎跡・現金沢美大構内)

 

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「金沢郷土辞彙」金沢文化協会 日置謙著 昭和17年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 


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