【小立野3丁目の一部】
旧松下町(まつしたまち)は、藩政期武家地で人持組横山蔵人の幾つかある下屋敷(家中町・かっちゅうまち)の一つで、町奉行の管轄外だったため町名がなく、藩政期は付近の人々からは「横山蔵人家中」と呼ばれていたようです。明治2年(1869)、に松下町と町名が付けられます。町名の由来は、何でも横山蔵人家中の周りは松の木が植えられていて、松の木の下の町から松下町と呼ばれるようになったと言われています。
(横山蔵人家は、初代正房が寛永10年(1633)加賀藩八家横山長治の四男として生まれます。藩主前田綱紀公に家老として仕え、知行1万石を領した。万治2年(1659年)中小将御番頭、寛文3年(1663)中小将頭、延宝2年(1674年)若年寄を歴任し、貞享3年(1686)家老となりました。)
(旧松下町から突き当たり小立野新町)
延宝年間(1673~1681)の金沢図には、「御唐犬引拾6人」とあり、隣接地は百姓地(約600坪)です。敷地は石引往還に面してかめ坂より56間(約100㎡)先に、唐犬引16人の拝領地と描かれています。
(土地は、間口62間(112,727m)、奥行き8間3尺(15,454m)で面積は527坪になり16人で割れば1人約33坪、同時期に近くの御小屋坂下に唐犬引35人と飼料所(6間×19間)の拝領地があり、いずれも30坪前後で、当時の小者の拝領地に相当し、御犬引は武士ではなく御小者と同等の位であったことが推測できます。因みに足軽屋敷の敷地は50坪~75坪(足軽小頭)で士分。御小者は士分ではなかったようです。)
(延宝の金沢図・旧松下町が、御唐犬引拾六人と有ります。)
藩政期、加賀藩では鷹狩りが歴代藩主により160回も行われたらしく、慶長11年(1606)7月には小立野、泉野、袋畠を「御鷹場」として設定されていたそうです。以後3代利常公が卯辰山で鷹狩りを行なったと伝えられています。主な行き先は越中の砺波野や加賀では大豆田、七ツ屋、粟崎などが上げられますが、11代藩主治脩公が小立野亀坂で放鷹したという記録が「政隣記」に書かれています。
(政隣記:加賀藩の上級武士津田政隣(まさちか)(1755~1814)は、11代藩主治脩公や12代斉広公の時代に、町奉行や馬廻組、宗門奉行などを務めた人で、政隣が加賀藩の政治、経済、文化の重要事を詳細に記録したもので「政隣記(せいりんき)」と言われている古文書です。)
(現在の天徳院と旧松下町の境の辰巳用水)
藩政後期や幕末の金沢図には、延宝金沢図に「御唐犬引拾6人」と描かれていたところと天徳院の際の辰巳用水までを「蔵人同心組」や「横山蔵人の下ヤシキ」と書かれたものもあります。横山蔵人家は、加賀八家の一つ横山家の支家で禄高1万石で家老も務めた加賀藩の重臣で上屋敷は田町(今の暁町辺り)にあり、幕末の下屋敷は、かめ坂だけでなく上屋敷の浅野川寄りや小立野の経王寺裏にありりました。
(今の旧松下町・大含寺前)
横山蔵人家中屋敷地に、明治12年(1879)、上野新村の一部を編入し、昭和39年(1964)4月、小立野3丁目の一部となり、旧町域は現在の小立野3丁目13、14、18街区辺りを言います。
(町会名「共和会」は、旧小立野新町と旧松下町との合同の町会名で、昭和39年(1964)以降の住居表示では小立野3丁目と石引2丁目の一部です。 因みに「共和会」という町会名は、大正4年(1915)で小立野の各町のうちで、上石引町の石引大四会とともに町会の成立は古く、昭和の9年頃の結成だそうです。)
参考ブログ
上野八幡神社の秋祭り
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11925106763.html
PS
大正時代の住民の回顧録に、松下町を流れる辰巳用水や当時移動した天徳院の隅っこ有った塚や地蔵尊の話が出ていますので紹介します。
(左天徳院の敷地・右松下町)
辰巳用水:上野町や松下町を経て天徳院の山門の横を流れいた辰巳用水は、水がきれいで、近所の人々は朝起きてまずこの川で歯を磨き顔を洗い、夏には子ども達は、辰巳用水に入り“あべ(泳ぐ)”たとも書かれています。
(大正の天徳院と旧松下町、旧小立野新町・お墓の間に地蔵尊・青は辰巳用水)
天徳院の出世地蔵伝説:辰巳用水に沿って松下町角に曲がるところに塚が2つあり地蔵尊があった。住宅地になった為に、天徳院総門近くに移され“出世地蔵”と名がつけらたが、悪童達は”立ち退き地蔵“と言っていたそうです。
(天徳院山門)
(天徳院総門のところの出世地蔵尊)
(総門跡脇の地蔵堂は、加賀騒動の真如院の子、勢之佐(利和)と八十五郎の供養ため建てられたもので、墓とともに天徳院の辰巳用水の内の藩政期は雑木林の中に、明治になり田んぼの中にあり、近くの松下町から良く見えたらしく、大正時代に住宅地になり、総門近くに移され、「墓」は野田山に移されたので地蔵堂だけが総門脇に残りました。松下町から総門内に出世したので出世地蔵と言われるようになったといわれています。)
(天徳院(大正時代)・右の上、赤いところが昔のお墓と地蔵尊)
参考文献:「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行・「小立野共和会百年史」編集・執筆・編集 石田順一 共和会発行ほか