小立野に住むものにとっては、尻垂坂(しりたれさか)は広坂と並び思い出の多い坂です。私にも幾つかの思い出したくない思い出がありますが、その一つに小学校低学年の頃、今も有る兼六坂(尻垂坂)の途中の小尻谷坂下に善隣館があり、当時、そこで夕方に開く「そろばん塾」へ近所の友人と通いました。算数が苦手で、当時、極度のビビリの私は、帰りの暗い坂道が耐えられなくて、何ヶ月続いたのか覚えていませんが、3桁の足し算の8級も満足に出来ないうちに挫折してしまいました。
(尻垂坂上・木が茂っているところが兼六園)
(この坂を下り、そろばん塾へ)
(そろばん塾のあった善隣館)
中学に入ると、ばあさんのお使いで、洗いに出していた仏壇を、リヤカーが付いた自転車で、あの長いだらだら坂を、名前の通り尻が垂れて、力が入らなくなって遅々として進まず、今にも雨が降りそうな曇り空に、焦りが募り、涙があふれてきたのが思い出されます。
(尻垂坂(兼六坂)中程・聞くところによると下の石垣上が旧坂の上で幅は狭い)
(尻垂坂という名は、昔、大八車を押して上げる人足の姿を見上げると尻が垂れているように見えた、長い坂道を荷車で引き上げると疲れてしゃがみ込む姿から尻が垂れたように見えたなど、また、坂道から水が浸み出るから汁垂れと呼んだのが訛ったと言われていますが、昭和33年(1958)頃に“尻垂”では語感がよくないと兼六園にちなんで“兼六坂”と改名されました。)
(延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100060?hid=ht020020
(上の略図・侍屋敷と御作事所のところが今の兼六園)
≪金澤古蹟志の尻垂坂≫
金澤古蹟志は「尻垂坂」の項で別名を汁谷、修理谷、尻谷と書かれています。江戸中期の享保年間には大修理谷と呼ばれていたことが諸々の古文書からも窺えます。さらにこの坂道の途中から小将町へ下る小尻谷坂があることから「故(ゆえ)に大尻谷とも呼べり。童謡にも大尻谷や小尻谷といへり」と、大尻谷は小尻谷からきた名であることも書かれていて「大」より「小」の方が先にあったというから面白い・・・。
(今の尻垂坂「兼六坂」)
また、「しりたれ坂」は、松雲公(5代綱紀)の年譜に書かれているそうです。昔小立野が山林だった頃、この坂路を里人の樵道で、以前は坂路より水がしみ出し、夏でも乾かず、ゆえに汁垂坂と呼んだそうです。ある史料(和訓栞)には、むかしはしりたれ坂と呼びたるを、今はしりたにと云っているのは、谷(たに)と訓むのは“垂”で、山のなだり(傾き)を云うらしいと書かれてあるそうです。
(尻谷往来はこの辺らしい・現在兼六園の内)
(江戸中期、学校の有った頃の兼六園・下の蓮池の上の往来は尻谷往来か・・・)
亀尾記には、何とか修理とかいう人が、この地辺に居住していたことから、こじ付けて修理谷ともいったそうです。しかし、この坂(尻垂坂)は、文政期前迄、道路が悪い峻坂で、竹澤御殿建築により、文政3年(1820)8月広坂より尻谷往来の通路が止められ、この時坂路を広め、文政3年(1820)9月より庶人の通行が始まったとあります。
(修理谷の由来は、坂の脇に小幡修理の邸があったことに由来しているそうです。また、(金澤古蹟志 巻10 1p 広坂)には、文政以前は、此の坂路(広坂)より兼六園の地内を通行して.尻谷坂へ出る往来道(尻谷往来)あり、文政3年(1820)竹澤御殿建築で文政3年(1820)8月18日より通行を止められ、此の道路(尻谷往来)を廃し、兼六園内に取り込まれました。それより百間堀往来を雑人の通行を許されるようになります。)
(今の小尻谷坂)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100060?hid=ht020020
≪金澤古蹟志の小尻谷坂≫
或は小汁谷、また小尻垂坂と書きます。大尻谷に対する名目で、元禄6年(1693)の士帳に、尻谷・小尻谷と並べて載せたれば、元禄前よりの名称なると知られけり。この坂は尻谷通りより小将町へ下る一条の坂名で、廃藩後その並びにまた一条の坂路を付け、今は二条の坂路で、共に名を小尻谷とは呼ぶ。
(金澤古蹟志の延宝の金沢図写しや記事では大尻谷と呼ぶ坂路の傍に坂路があり、新坂と書き載せてあるそうです。この坂路の下、新坂は今いう小尻谷の坂で、延宝の頃、新たに付けられ新坂と呼び、後に小尻谷坂と呼ばれたそうですが、地図ですから勾配もよく分からず、今見ると、新坂と書かれていますが、それが小尻谷坂というのがよく分かりません。延宝以後の地図も調べてみようと思います。)
小尻谷町(こじりだにまち):此の町は、小尻谷坂には古くから小家あり、元禄以来の地子町裁許附等にも記載さていない町があり、廃藩後明治4年頃に武土地を売却して、小家を建て町名を小尻谷町と称しました。昭和41年に町名が変更になり東兼六町になりました。
(つづく)
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行ほか