【下石引→丸の内】
現在の兼六坂(旧尻垂坂)は、金沢駅や東金沢方面から小立野方面へ行く多くの車が走り抜けていますが、大正8年(1919)から昭和42年(1967)2月の廃線まで、主役は路面電車で、尻垂坂(兼六坂)の上り下りは、乗客が少ないと揺れが激しかったことが思い出されます。当時はそんなものだと思っていて、あまり恐さは感じませんでしたが、今になって思い出すと恐さのあまり肌にボツボツが出ます。
(兼六坂(尻垂坂)は途中から上の坂と下の坂に分かれます?)
小立野行きの路面電車は、2種類の青電車(緑の車両)と薄い黄色と臙脂のツートンカラーのボギー車の3種類の車両で、行き先は2系統があり、①番系統は、小立野大学病院前から橋場町廻りで金沢駅の往復で③番系統は、小立野大学病院前から香林坊経由の野町駅の往復でした。
(①は金沢駅から小立野大学病院前行き)
この尻垂坂の車道は、現在、距離 602m、 高低差 30.97mと、市内でも距離も長く傾斜度も大きい坂で、昭和40年(1965)6月 には、路面電車が坂下に横倒しになり、死者や重傷者がでる大事故が起こり、この暴走転覆事故後、小立野へ青電車の昇り降りがなくなり、ボギー車だけになったと聞きます。また、下りの場合、上で一旦停車しブレーキのテストをするようになり、暴走脱線事故が発生したことが廃線を決定的にしたと云われています。
(国立医療センターの土塀・奥村家)
(卯辰山)
かっては路面電車の車窓からは、春には兼六園側は石垣の上が桜並木で、早咲きの椿寒桜や遅咲き菊桜まで、3月の下旬から5月の上旬まで楽しめ、反対側は家々の間から、晴れた日には別名で臥龍山と云われる卯辰山の龍の背中のような山が望め、小立野への帰りには、坂の上に有った加賀八家の奥村宗家の土塀が見える辺りからゆるいカーブになり、今では電車は有りませんが、春はバスの車窓から土塀外に垂れる“しだれ桜”が昔の風情を伝えています。
(尻垂坂の椿寒桜)
≪金澤古蹟志にある周辺の記述≫
柵御門跡
旧藩中は尻谷坂の下より城中石川門口への往来に、柵御門と称し、惣門ありて足軽番所を置けり。廃藩の時諸門と共に廃止せらる。按ずるに、此の門は改作所旧記に載せたる延宝元年(1674)十二月の書付に、土清水御薬蔵御園より柵御門迄道程一里と見江。十二冊定書割場部城外掃除町場付に、新坂柵御門とありて、本名は新坂柵門といへり。延宝の金澤図を考ふるに、今云う小尻谷坂をば新坂と載せたり。此の坂の辺る門なし故に、新坂の名を負へるたるべし。
(柵御門跡はこの辺りか?)
(延宝の金沢図の略図・金澤古蹟志より)
新堂形前
尻谷坂の下より紺屋坂辺をば新堂形と呼べり、旧藩中は広坂下辺をば古堂形或いは本堂形称するゆえに、新堂形と呼びそめたるものなりといえり、按ずるに、高沢忠順の年代摘要に、両堂形前同作定掃除、五ヶ年季にて泉・談義所之者請負、一ヶ年新堂形四拾目、古堂形九拾目、享保12年(1727)留有之。と載せたり。明治廃藩置県戸籍編成の際、この道辺りを改称して尻垂坂通りとす。
(町名の「尻垂坂通り」は、昭和33年(1958)に「兼六通り」と改称され、昭和39年(1964)4月住居表示の実施と同時に「兼六町」になっていました。)
(昔、新堂形前、今、兼六通り)
≪百間堀往来≫
蓮池堀縁通りの往来也。此の地、今は小立野の麓といふけれど、往古は城地の続きにて、小立野山崎山の山内なり。関屋政春古兵談に、尾山城は其初め小立野の尾崎を掘断ち、是を築く。其堀切は奥村伊予屋敷と城との間の蓮池(百間堀)なり。其頃蓮池は、涸(かれ)堀也と云ふ。とあり。又佐久間玄蕃尾山居城の頃、才川の奥日尾・見定の邑民をして、蓮池堀を掘らしめたるよしと見江たり。されば天正年中佐久間氏在城の頃よりの往来道なるべし。
(石川門)
但し旧藩中は、北方紺屋坂口に、紺屋坂門とて番所あり。又東方尻谷口に、柵門とて是にも番所あり。又南方広坂下に.坂下門とて是にも番所ありて、各軽率の番人昼夜警備して、登城人の外、男女雑人の通行を改め、文政三年(1820)八月以前は、男女雑人の通行禁制されたり。按ずるに、有澤武貞の金澤細見図譜、承応・明暦の頃までは、三ノ丸河北・石川両門を無滞、貴賎老少男女共往来せし処、白鳥堀へ往来の女身を投げけるより、普通の往来停止と成りたりとあり。
(百間堀往来)
(坂下門跡)
然れば此の時より百聞堀往来、雑人の往来停止せられたるたりと聞ゆ。然るに旧藩十二世権中将斉広君、養老所に定められて、今云ふ公園兼六圏内に竹澤殿造営に付き、広坂より蓮池亭上通り修理谷への往来を、兼六園内へ取り込み相成るに依って、文政三年(1820)八月十八日より初めて百聞堀の往来、男女雑人の通行を許されたり。
(つづく)
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行ほか