【下石引→丸の内】
今、兼六坂(尻垂坂)の坂上八坂の手前に“兼々御亭”という大きな和風レストランとお土産を売るお店があります。今日は、その“兼々御亭”の一画に昭和40年代に有った宿のお話です。この間から“尻垂坂”について調べていて、路面電車が尻垂坂を上り下りする写真を探してPCをスクロールしていて見つけた宿にまつわるお話です。
(今の兼々御亭と八坂)
すっかり忘れていましたが、路面電車の後ろに写っている昔あった商人宿を見つけて50数年前の出来事を思い出しました。実は東京に居た頃、田舎を聞かれると、聞く人聞く人に“金沢で兼六園の隣“とか”兼六園は自分の庭”だと豪語していました。家の事情で私が金沢に帰ってから数ヶ月たった頃、新しい職場から帰ってくると、東京の友人が尋ねて来て、今夜は、くだんの宿で泊まると託していったと聞き駆けつけました。
(電車の後ろが当時の商人宿)
当時、我が家には電話も無く、文通をしていた分けでもないので、“兼六園の隣”と聞いていたのを頼りに、金沢に来て、まさに兼六園の隣の宿に辿り着き、宿の女将に相談し住宅地図で探したらしく、我が家を尋ねたそうです。
(上坂より下の尻垂坂(兼六坂)路面電車敷設で道路を拡幅し高低差を是正か?)
無謀にも、電話もなく住所も知らずに、尋ねて来てくれたのがうれしくて、その夜は何をしゃべったのか思い出せませんが、私は、多分、若気の至りか、たまった不満と愚痴を吐き出したことでしょう?あくる日はやっと入った会社を休むわけには行かず、一人で兼六園などを観光して頂き、夜は行った事もない店へ大枚叩いて梯子酒をしたのが思い出されます。
さて、ここから尻垂坂の大昔、延宝期(1673~81)にタイムスリップすることにします。「延宝の金沢地図」では、下記の通り、道幅が広く真ん中にかなり広い広見(新坂)があり、図の広見(新坂)のところにも、上に伸びる坂(尻垂坂)には階段を表す道と直角に罫線が引かれています。道幅は推定ですが上が三間(5,5m)ばかり、広見は四間(7,3m)強もあり、尻谷往来に続いています。(石川県立図書館蔵)
(延宝の尻垂坂周辺)
(今の上坂・この辺りから新坂に繫がり、尻垂坂へ続いていたのでしょうか?)
下の図は、「金沢十九枚御絵図」の尻垂坂の引用です。上の小尻谷坂は尻垂坂に繋がっていませんが、今、階段の坂が繋がっています。また、広見は同じで新坂の表示はありませんが、そこに「尻垂坂」と描かれています。竹澤御殿(兼六園)のところは紙が貼られていて詳しく描かれていませんが、八坂の脇に外惣構の辰巳用水の分水が描かれています。絵図は文政11年(1828)6月に完成し天保6年(1835)3月に献上。(石川県立図書館蔵)
(文政11年に完成した尻垂坂周辺の地図・兼六園は紙を貼って分からない)
(八坂と惣構の辰巳用水の分水(2段の滝になっていて、霞ヶ滝)
上坂については、竹澤御殿の頃からすでにあり、幕末から明治に描かれて金沢街地図には記載がなく、明治42年(1909)頃の「地図で見る金沢の変遷」に記載されています。以後の地図でも記載されていないものもあります。
(幕末の竹澤御殿の図の下に上坂が描かれています。)
(明治42年の25万分の1の図に上坂が描かれています。)
下図は路面電車が開通した翌年大正9年(1920)の金沢街地図の部分ですが、上坂が描かれていませんが、兼六園の大和武尊横から今の上坂料金所が尻垂坂の直接繫がっているのがよく分かり、有料になる以前の兼六園は10数ヶ所の入口があり夜でも自由に出入りが出来た事が分かります。
(大正8年(1920)の電車敷設後の地図・上坂があるはずなのに描かれていません)
(上記の地図の尻垂坂通1丁目の通じる兼六園の道は今上坂料金所)
さて、3回に渡り尻垂坂歩いて調べてまいりましたが、お蔭様で何人かの人に関心を持って頂き、また、情報を頂いたり、大いに助かりました。ありがとうございます。後は、路面電車の工事中の話は追々調べるとして、何とか未完ながら今回で尻垂坂は終わりにします。
参考文献:「延宝金沢図」・「金沢十九御絵図」(石川県立図書館蔵)「明治42年頃の金沢の変遷」財団法人日本地図センター発行「竹澤御殿御引移前総囲絵図」玉川図書館清水文庫に小西啓太が加筆)「金沢市街新地図」大正12年・駿々旅行案内部発行ほか