小立野の尻垂坂②路面電車と周辺の昔!!
【下石引→丸の内】現在の兼六坂(旧尻垂坂)は、金沢駅や東金沢方面から小立野方面へ行く多くの車が走り抜けていますが、大正8年(1919)から昭和42年(1967)2月の廃線まで、主役は路面電車で、尻垂坂(兼六坂)の上り下りは、乗客が少ないと揺れが激しかったことが思い出されます。当時はそんなものだと思っていて、あまり恐さは感じませんでしたが、今になって思い出すと恐さのあまり肌にボツボツが出ます。...
View Article小立野の尻垂坂(兼六坂)③坂の上の商人宿と上坂!!
【下石引→丸の内】今、兼六坂(尻垂坂)の坂上八坂の手前に“兼々御亭”という大きな和風レストランとお土産を売るお店があります。今日は、その“兼々御亭”の一画に昭和40年代に有った宿のお話です。この間から“尻垂坂”について調べていて、路面電車が尻垂坂を上り下りする写真を探してPCをスクロールしていて見つけた宿にまつわるお話です。 (今の兼々御亭と八坂)...
View Article金沢城の外濠公園①白鳥路のホタル
【金沢・丸の内】金沢城の外濠は、4つの堀があり「白鳥堀」「百間堀(蓮池堀)」「大手堀」「宮守堀(いもり堀)」と言われています。金沢城外濠公園は昭和24年(1949)3月、金沢城の堀を埋め立てて市民に公園として開放した事に始まり、現在では交通の便もよく市民・観光客の憩いの場所となっています。 (白鳥路の入口に立つ看板)...
View Article金沢城の外濠公園②白鳥路の彫刻群
【金沢・丸の内】白鳥路は、昭和59年(1984)に整備され「水と緑と思索の道」と命名された散策路です。現在、百間堀口には「前田利家公の銅像」。道沿いには「三文豪像(室生犀星、泉鏡花、徳田秋声)」をはじめ21体もの彫刻が行き交う人を出迎えてくれます。 (白鳥路の百間堀口から石川門)(白鳥路の入口・前田利家公の銅像(竹下慶一作) (当時、北國新聞には「三文豪のブロンズ像完成...
View Article金沢城の外濠公園③白鳥堀の由来!?
【金沢・丸の内】白鳥堀が何時開削されたのかを知りたくて調べていたら、手元にあった石川県金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフの金沢城建築関係略表に書かれていました。その表では文禄元年(1592)文禄の役。金沢城大改修。百間堀(蓮池堀)、いもり堀、白鳥堀等を掘る。と書かれています。 (白鳥路の中程から先は百間堀)...
View Article金沢城の外濠公園④大手堀と大手御門
【金沢・丸の内】大手堀は、金沢城で唯一埋め立てられなかった堀です。春には桜が、初夏には緑と水辺に恵まれた絶好の散歩コースですが、明治40年頃には、ほかの堀のように埋め立てられ運動場にする計画が持ち上がったと聞きます。経緯は分かりませんが、以後も水が抜かれることはなく藩政期の風情が残され今日に至ります。 (大手御門跡(尾坂門))(大手堀の桜並木)...
View Article小立野から香林坊へ、廣坂(ひろさか)
【金沢・広坂】藩政期以前は、廣坂の上、現在の県立美術館のところに神明宮や愛宕寺明王院が有り、今も、崖際には古木が聳え神仏が似合いそうな雰囲気を醸し出しています。また、向かい側に昼でも寒気を感じる芋掘藤吾郎伝説の金城霊澤があり、その辺りは、東山にある金澤山永久寺の創建の地だったそうです。若い頃でも、この辺りは寂しいところで夜一人で歩のが怖くて、夜など香林坊からはバスかタクシーで帰宅していました。...
View Article廣坂通りから香林坊①香林坊の由来と・・・
【香林坊】永年、俗称で呼ばれていた「香林坊」は、昭和40年・41年の町名変更で正式な町名になります。昭和40年(1965)9月1日には石浦町、南町、高岡町、高岡町上藪ノ内の各一部が香林坊2丁目として、翌年昭和41年(1966)2月1日には石浦町、南町、上松原町、仙石町の各一部を香林坊1丁目とし、始めて香林坊が正式に町名となります。 (香林坊の石碑・今、この場所片町)...
View Article広坂通りから香林坊④「金澤古蹟志」の向田香林坊伝
【香林坊1・2丁目】今回は、森田柿園が書かれた「金澤古蹟志」の向田香林坊伝を原文のまま引用します。柿園は一つのテーマでも、いろいろな文書から集めまとめているので、横着な私でも、本を揃えて調べることがないので、有り難いのですが、一つのテーマに諸説が書かれ、しかも、そのようなテーマに限って文末に“過聞ならん”“追考すべし”“実否不レ詳”とあり惑わされています。マア~、贅沢な悩みですが・・・。...
View Article広坂通りから香林坊⑤香林坊の「地蔵餅」
【香林坊1丁目】明治になると香林坊の柿木畠に入る角家、今の松屋時計店のところに、中村與三郎さんが昔風の低い二階家の土地と家屋を買取り「中村菓子店」が開店します。主の中村與三郎さんは、幕末に弓取村諸江に百姓の三男坊として生まれ、後に金沢の野町で米穀商を営みコツコツと小銭を蓄え、明治19年(1886)の事でした。 (正面松屋時計店・中村菓子店跡)...
View Article広坂通りから香林坊⑥明治の香林坊の没落と再生
【香林坊2丁目】明治2年(1869)の版籍奉還、明治4年(1871)廃藩置県により、城下町金沢は激しく動揺します。武家屋敷の空家が目立ち、広坂通り、石浦町や柿木畠もご多分に洩れず高禄の武家も空家になり、当然、香林坊周辺の商家も店じまいや没落が目立つようになります。 (今の片町より香林坊)...
View Article金沢城下の升形と三惣門・犀川口・浅野川口・宮腰口
【犀川口・浅野川口・宮腰口】平成30年4月、藩政初期の宮腰口升形と惣門の一部が復元され、街中に約5mの高さの異様な丘が唐突に出現しました。今金沢では、その藩政初期の遺構を見る事ができる唯一の升形です。かっては金沢城下と宮腰(金石)の港を結ぶ宮腰往還と西外惣構が交差する交通・軍事上の要衝で外敵の侵入を防ぐためのものだったといいます。 (復元した宮腰口の升形)...
View Article広坂通り、明治20年第四高等中学校開校
【広坂2丁目】加賀藩の藩校、文学校「明倫堂」武学校「経武館」が今の兼六園から広坂に移転したのは、文政5年(1822)でした。この広坂の校地に、明治9年(1876)開校の中等教育・高等専門教育の啓明学校が明冶10年(1877)7月に石川県中学師範学校に改称され、さらに明治14年(1881)開校の石川県専門学校から明治20年(1886)第四高等中学校(後に第四高等学校)開校へ発展していきます。...
View Article広坂通りから柿木畠①石川県知事公舎辺り
【広坂1番丁・上柿木畠】明治4年(1871)から昭和41年(1966)まで、いわゆる金沢市内の住居表示変更以前、今の百万石通り(広坂1丁目・2丁目)を大通りは勿論、石浦神社向かい側の今の金沢21美術館から惣構堀まで、市役所の横の通りから宮内橋までを「広坂通」と呼ばれていました。宮内橋を渡ると左手の石川県知事公舎(元壮猶館・箆蔵的場跡)が有り、当時は上柿木畠1番地でした。 (市役所横、至る宮内橋)...
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