【広坂2丁目】
加賀藩の藩校、文学校「明倫堂」武学校「経武館」が今の兼六園から広坂に移転したのは、文政5年(1822)でした。この広坂の校地に、明治9年(1876)開校の中等教育・高等専門教育の啓明学校が明冶10年(1877)7月に石川県中学師範学校に改称され、さらに明治14年(1881)開校の石川県専門学校から明治20年(1886)第四高等中学校(後に第四高等学校)開校へ発展していきます。
(四高前の明治、大正、昭和3代の学生像)
第四高等中学校の設立は、明治19年(1886)の帝国大学令により、北海道・沖縄県を除く全国を五区に分割しそれぞれに高等中学校を設置することが定められ、このうち新潟・富山・石川・福井の北陸4県にまたがる「第四区」では、金沢の広坂の地に設置されます。これは、当時の石川県知事岩村高俊らの働きかけによるところが大きく、新潟との誘致合戦では、設立資金の3分の2を旧藩主の前田家の寄付で、金沢誘致に成功します。
(四高前身校の変遷・館内のパネルより)
(第一区は東京、第二区は仙台、第三区は京都、第四区は金沢、第五区は熊本、後に第六区は岡山、第七区で鹿児島、第八区で名古屋のナンバースクールが開校します。)
(旧四高本館・現在石川四高記念文化交流館・石川近代文学館)
翌明治21年(1888)3月には、敷地を広坂通り、仙石町および西町2万余坪に決定し、明治25年(1892)4月には新築校舎も落成し、翌年10月には時習寮も開設。明治27年(1894)7月、「高等学校令」に基づき大学予科および医学部を置き、第四高等学校と改称した。明治31年(1898)2月には、北條時敬が校長に発令され、四高の風紀が刷新されます。明治34年(1901)4月、医学部を分離独立させて金沢医学専門学校とした。第二次世界大戦後の学制改革により昭和25年(1950)3月に閉学。現在の金沢大学設置においても重要な役割を担うことになります。
(金沢神社の脇にある北条時敬頌徳碑)
(北條時敬:安政5年(1858)5月6日、金沢の池田町で金沢藩士の次男として生まれる。幼名は粂次郎(くめじろう)。鎌倉北条氏の末裔と称する。専門は数学で、明治18年(1885)に石川専門学校教授、金沢工業学校教諭嘱託となり、次いで第四高等学校、第一高等中学校講師を経て、明治27年(1894)に山口高等学校教授、明治29(1896)には同校の校長に就任した。明治31年(1898)には第四高等学校の校長、明治35年(1902)には広島高等師範学校の校長を歴任し、大正2年(1913)には東北帝大総長、さらに学習院長を務めた。第四高等学校校長の時、首相の伊藤博文が金沢滞在に際し、金沢には学徒が多いため絃歌飲食をしないようにと手紙を送ったという。このため「金沢に北条なる者あり畏るべし」と言わしめたという逸話が残っている。 大正9年(1920)には宮中顧問官になり、貴族院議員にも選出された。 昭和4年(1929)4月27日、肝臓癌で死去。享年71)。
(北条時敬頌徳碑)
明治20年(1887)4月、第四高等学校の誕生では、10月26日の開校式に、日本最初の文部大臣森有礼に岩村高俊石川県知事以下、県会議員や連隊司令部将校らが列席して行なわれました。
(四高本館・明治25年竣工)
金モール付きの礼服で壇上にたった森有礼文部大臣は「明治維新の大事業がうまくいったのは、天皇陛下と薩長の力によるものである。加賀藩などは大藩ながら役にたたなかった。だからこそここに日本で4番目の高等中学校をつくって、国家に役立つ人物をつくらねばならるのであ~る。」と演説したと伝えられています。
それに怒って、文部大臣に飛び掛ろうとした士族出身の生徒が将校の取り押さえられたという。四高の誕生は誘致運動を始め関係者の並々ならぬ苦労があって、ようやく実現したもので、設立の費用は約11万円(今の約27億5千万円か?)の内、3分の2に当る7万8千円(今の約19億5千万円か?)が前田家の寄付によるものでした。
(単純に今の貨幣価値が当時の25,000倍とすると、11万円は27億5千万円か?、7万8千万円は19臆5千万円か?)
(四高本館階段と廊下)
森文部大臣の式辞に憤慨したのは、この生徒だけではなかったものと思われます。もっとも、森文部大臣は地方負担分が前田家の多額寄付によって達せられたことは、始めに述べたと言われていたそうです。
当時の校長柏田盛文は元鹿児島県議会議長、5人の幹部は揃って鹿児島出身と偏った人事も、四高の前途に暗雲が予想されました。「はかま禁止」「ぞうり禁止」「敬礼がわるい」「姿勢が悪い」など些細のこと生徒の自主の芽を摘むケースが多く、違反者が続出したと言います。
(森有礼:元薩摩藩士、外交官、政治家。初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社会長(発起人)、東京学士会院初代会員、大日本教育会名誉会員を務め、明治六大教育家に数えられる。正二位子爵。通称は助五郎、金之丞。)
明治22年(1889)の本科第一回卒業生は4名、第二回は8名、第三回は11名、第四回は19名といった数字が、四高草創期をしめしています。大半の生徒は途中で陸軍士官学校、海軍兵学校、高等工業学校、高等商業学校に移るか家庭の都合で中退したといいます。
第1期生の西田幾多太郎、桐生政次(悠々、後、復学卒業)、鈴木大拙、徳田秋声、など有名どころも中退組。初期の入学生にとって、今となっては、決して不運であったとは言い切れません。
参考文献:加賀藩医江間三吉(萬里)―幕末から明治― 著者小林弘子 発行2004年7月30日 印刷株式会社橋本確文堂・ウィキペデアフリー百科事典など