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金沢城下の升形と三惣門・犀川口・浅野川口・宮腰口

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【犀川口・浅野川口・宮腰口】

平成304月、藩政初期の宮腰口升形と惣門の一部が復元され、街中に約5mの高さの異様な丘が唐突に出現しました。今金沢では、その藩政初期の遺構を見る事ができる唯一の升形です。かっては金沢城下と宮腰(金石)の港を結ぶ宮腰往還西外惣構が交差する交通・軍事上の要衝で外敵の侵入を防ぐためのものだったといいます。

 

(復元した宮腰口の升形)

 

今回復元された升形は、大きなはっぽうスチロル製(土を積まないのは、軽くして石垣の遺構を守るためか?)の惣構(丘)で、約600の敷地に高さ5m、幅約11m惣構の遺構を復元、その周辺には深さ1mの堀を整備し、遺構に残っていた石垣も欠損箇所を積み増されています。総事業費は何と約31千万円とのことです。

 

 

(宮腰口の升形と惣門のイラスト)

 

宮腰口の升形は西外惣構での戦いに備えて慶長15年(1610)に利常公が篠原一孝に造らせたものといわれたものでした。しかし、現実には城下を守る升形に敵の大軍が攻め込むような事態は起ることはなく、堀は次第に埋められていったといいます。宮腰口の升形以外に犀川口浅野川口は、今も交通の要衝にあるので升形の跡は道路の整備とともに消えてなくなりますが、ここは以前あった住宅も壊され、空地になっていたので升形が再現をする事になったそうです。

 

 

 (惣構のイラスト)

 

惣構は、藩政期に城下町を囲んだ壁と堀で、金沢城下では、内惣構と外惣構の2重にめぐらされた囲いで、その入口にあたるところを升形といいました。戦国末期、金沢の町が本格的に造られた時、内惣構は高山右近が、小田原攻めで学んだ技法で、後に秀吉が京都でつくられ、京都では「お土居」呼ばれ、後に家康が巨大な外堀で囲む江戸の街が造られています。尚、外惣構は10年後の慶長15年(1610)、篠原一孝によって造られました。)

 

参考ブログ

史跡金沢城惣構跡 西外惣構と惣構堀

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10624092005.html

その他惣構の記事多数

 

(金沢市が発行しているパンフレット)

 

藩政期、金沢の城下には犀川口香林坊橋爪浅野川口枯木橋爪宮腰口安江町の橋爪、の三ヶ所は、金沢城下の入口の升形で、藩政時代はこの三ヶ所とも惣門を建てられていました。

 

(延宝の金沢図、宮腰口の升形・石川県立図書館蔵)

 

≪宮腰口升形跡≫

元禄六年(1693)の士帳に、安江町升形とあり。此の地は、安江町と安江木町との地堺にて、今も升形と呼べり。宮腰口惣構の要害たりしゆゑに、昔は犀川口香林坊橋・浅野川口枯木橋と、此の安江町升形と三ヶ所は、升形とて土居を作り、惣門を建て、要害の防禦をなしたり。故に升形の名ありといへり。延宝の金澤図を見るに、惣構の土居全く升形に図せり。延宝の頃までも尚存せしかど、その後土居を廃し、町家を建てたる故、升形の遺形失せたるたるべし。(金沢古蹟志巻26 P5

 

 

(今の宮腰往還にある復元された惣構)

 

升形橋

金潔橋梁記に、升方の橋安江町の端也とあり。此の橋は、旧藩中は惣構堀の橋たるのみならず。升形の要害橋にて、香林坊橋・枯木橋と同ようの橋爪と云う。また旧藩中は、神社仏閣の開帳札等・犀川・浅野川と此の橋爪と三ヶ所に建つる例也。是も国初以来の流例なりといへり。(金沢古蹟志巻26 P5

 

 

(今の枯木橋)

 

≪浅野川口枯木橋升形跡≫

旧藩中は、尾張町と橋場町との境なる升形に惣構の惣門あり。この門は浅野川口の惣門にて、犀川口香林坊橋の升形門と同じ。此の門創立の事は記録に所見なし。按ずるに、慶長六年(1601)惣構堀の出来の時に創立せしものならんか?元禄三年(1690)の火災記に、枯木橋之門並高札場二ケ所・柵等焼失とあり。高札場は所謂嘱託の札場にて、枯木橋の橋下南側にありしかど、廃藩の際惣門と共に取除きたり。(金沢古蹟志巻29P27

 

 

(今の枯木橋と惣惣構跡)

(浅野川大橋と枯木橋・文化8年の町絵図より)

 

枯木橋

金澤橋梁記に、かり木橋尾張町下也。とあり。今世人もかりきばしと呼び誤りたる也。久保市乙剣社記に云ふ。元亀・天正の一乱に、社壇も衰頽し、境内の林木枯木と成る。此枯木共儘年を経て立ちける故に、此の橋をば枯木橋と呼べりと。三州志来因概覧には、この橋正保の頃までは丸木を並べ、山聞の渓川橋の如く、その頃橋の傍に枯木一株あり。故に世人枯木橋と称す。といへり。亀尾記に、枯木橋の橋辺にありし枯木は榎木にて、その木近年迄残りありしといへり。今按ずるに、そのかみ橋辺りにさる枯木ありしかど、此の橋名は、旧藩初の頃枯木町の末なる橋故に、枯木橋と呼びたるたらん。枯木町の枯木は何れにありたりけん。物を商へる類ひをば呼びたる怠るべし。改作所旧記に、寛文九年(1669)村方棟役引書上帳の文集に、懸作百姓何人何村。但跡々より何村より懸作に持来、今以何村には家無之、御棟役不仕。などと載せたり。右は他村より仮に出作り小屋を建て、当分寄留する由たり。古歌によめる、かりほのいほの類ならんか。萬葉集に借慮とかけり。元緑九年(の地子町肝煎裁許附に百姓町・犀川懸作町といふ町名を記載し、今三社懸作と呼べるもあり。皆目疋そのかみ仮屋を設け、所謂ほし店をなしたるゆゑの遺称なるべし。(金沢古蹟志巻29P27

 

(犀川口升形辺り・文化8年の町絵図より)

 

≪犀川口升形門跡≫

今は跡形も残っていませんが香林坊橋爪の升形は、藩政初期、東方の惣構土居のきわに前田平太夫の居邸の長屋に角に矢倉があり、江戸の見付升形(赤坂見附か?)のように際立って景色がよかったといわれています。宝暦九年(1759)の大火で焼失しその後、矢倉は絶えたといわれています。藩士の居邸の長屋に矢倉を造るのは、国初よりの習わしになっていましたが、萬治二年(1659)に停止になりました。

 

(今の香林坊橋辺り)

 

その時の建書に、

居屋敷長屋之端に、矢倉仕候儀御停止に候。最前如レ被ニ仰出ー候。惣而作事不レ応ニ分限一華麗之躰不レ仕、弥軽々与普請可ニ申付一由御意に候。以上。

萬治二年七月九日

 

上記の建書がありますが、その以前より有之分は、当分そのままたるべしとの事にて、その後にも大身の長屋には矢倉がありましたが、おいおい火災等で絶えて、前田平太夫居邸の矢倉だけが残り居っていたそうです。さて右升形の惣門創立の年暦等、詳しくは分かりませんが、慶長十五年(1610)西外惣構堀が出来の時だと思われます。犀川・浅野川両升形共、明治廃藩の際、城外の諸門が廃止の時、取り壊されました。

 

(香林坊橋と升形の惣門・稿本金澤市史、巌如春画より)

 

升形嘱託場跡

藩政期、犀川・浅野川両升形・升形及び小立野石引町・犀川馬場等に.制札場があり、禁制の條目を板札に記載され掛けられていました。

 

(嘱託場の定書)

 

参考文献:参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他


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